見出し画像

(145) 先ずはひと呼吸

いい歳をして右手のくすり指に大きめのガーネットが入ったシルバーリングをしている。別に一月生まれでもないから、全くリングの意味がわからない。人からみたら不思議に写るはずだ。

人様の評価が目的ではないのだし、私はこのリングのおかげで大いに助かっている。というのも、”ひと呼吸”置くための重要なアイテムであるからだ。仕事柄クライアントの話を傾聴することは並大抵のことではない。重く苦しく悲しい話であり、時に「死にたい」など簡単に受けとめられるものではないのだ。そんな時、私が泣いたり失神していたのでは共倒れとなってしまい話にならないのだ。ドンと受けとめられるクッション材である必要がある。求めて欲しくなんかないのに、”共感”のまなざしと言葉、正しい分析、先を展望できる余裕が求められている。

自慢するわけではないけど、私は注射が怖い臆病者だ。大きい声では言えない。そんな私はクライアントの前に座り、左手の指で右手のリングを見えないように七回クルリとゆっくり廻しながら腹式呼吸をすることにしている。”ひと呼吸”でなく七呼吸するという訳だ。それを始めて三十年となるが、不思議と大きな効果がある。リングのおかげである。

”美しい生き方”というのにこだわりが大いにある。「注意を払う方向」でそれが決まると思っているからである。たとえば大きな怒りを感じたとき、不満を感じたとき、恐怖に思ったり、不安に圧倒されそうになったとき、どこに注意を払ったらいいのだろうかと、常に愚考ではあるが考え続けている。それは人によって大きな差が生まれる。その惨めさに嘆いているばかりでいるのでは、美しさは感じられない。出来るのなら、いつか・・・近いいつかに光が見られる方向に注意を払えるかで居続けたいと思っている。そのために”ひと呼吸”置く必要を感じている。深い呼吸をいいタイミングで入れれば良い。私はその呼吸に単なるリングというアイテムを利用しているだけのことである。

それ程ざらにあるわけではないが、「死にたい」という言葉が出ることがある。それは言葉だけの問題では決してなく、カウンセリング・ルームの玄関を入られるその瞬間から雰囲気で分かることがほとんどだ。ドアの閉まる音も、靴を脱ぐ音、スリッパを履く音、歩く、椅子に座る音もしないのだ。決まって音を立てることを躊躇ってのこと。どれ程のことか、これでよくわかる。声を掛けるべき機会は奪われていて、私も声が出せない空気が漂っている。

「一週間、大変だったようだね。苦しかったね」
と、七回リングを廻したあとの精一杯の声掛けである。
いつもなら、クライアントに
「この一週間どうだった?」
という質問を投げかけて話しやすい工夫をするのだが、このケースには通用しないのだ。彼・彼女の一週間を今日の空気を読みとり想像して能動的聞き方により、”共感”していますよ、をお伝えすることが重要となる。それなら、彼・彼女は話を始められるのだ。
「俺が君のそばについているからね」
なんてチャチで陳腐な言葉なんて、まるで通用しない。彼・彼女自身が、今感じとっている「注意を払う方向」では救われないという気づきに至る道筋が、まず私に見えるかがかかっている。

「Uターンしてみますか?」
が、それへの始まりの私のサインだ。
「えぇ?どういうことですか?」
が、必ず返ってくる。
「そうだったね。言葉足らずでごめんね。君が行き詰ってしまった頃まで戻ってみませんか?何を気にして、きっとそればかりに注意を向けてドンドン身動きが取れなくなったその時にUターンするってことですよ」

人が圧倒されてしまう事柄やきっかけは人それぞれであるが、不得意な分野で起こることがほとんどだ。それを劣等感とし、自身を否定することが前提にある。その前提は、まず本人を圧倒して今変えたいことに使えるエネルギーを減少させ、視野を狭くし、思考を減退させる。その上、その劣等感と自己否定感が悪さをするのか、それを人に投影して必ず人に対して怖いという
感覚を植えつける。それらにより外界からのあらゆる刺激を歪んで受けとるようになってしまう。Uターンすることで記憶をとり戻し、その時点に力を失くしたため、何に「注意を払ってしまったか」を点検して、絶望ではなく、先に光が見えるだろう「注意を払う方向」を見つめ直すことに持っていきたいのだ。その時々に先ずは”ひと呼吸”をとり入れる。詰る度の”ひと呼吸”がエネルギーをとり戻す。

クライアントの言う奈落の底に居る場所から、光の見えるせめて地上に、と願うことは決して簡単ではない。時に痛むし、やり切れないのであるが、一ミリでもいいからここの今から動きを生じさせたい一心なのだ。肩の張りがやわらぎ、目に力が加わり、お顔がほころぶ・・・こんな変化がみられるようになる。私が私に力を与える「先ずは”ひと呼吸”を」が彼・彼女らに伝わった時から、わずかではあるが速い呼吸が深くゆっくりした呼吸に変化する。

そんなアイテムであるシルバーリングは、実はオシャレでしているのだ。それを”ひと呼吸”置きたい時のアイテムに活用しているに過ぎない。今度、誕生石であるオパールのリングにでも交換して、根拠を持ちたいのだ。