(135) 花の命は短くて
花の命は短くて 苦しきことのみ多かりき
美しい名言である。
林芙美子の『放浪記』は悲嘆と絶望をひたすら綴った小説で、何しろ強い衝撃を受ける。感動とは違い、強烈な言葉に圧倒される。同じ作家とは思えない美しい名言に涙がこぼれそうだ。
「人生は太く短く雄々しい」から生まれた名言なのだろう。「”生きて”いるからこそ、花の命の短さを嘆くことが出来る」と謳っているのに違いない。こんな言葉の紡ぎ方に心が震える思いだ。
生業上、たくさんの”生きる”ということのそれぞれの解釈を見させられる。時に身体が震え、砕けるのを味わったり、前に乗り出して聞くほどの”生きる”を知ったりもした。また、数日泣き続けたこともあった。それほど”生きる”は人によって様々な受け止め方があることに、今さらながら驚く。
「”生きる”ってことが辛い」
「もう”生きてる”ことに疲れました」
「死んだ方が楽になれるから・・・」
こんな位置づけの”生きる”を聞くことが多い。
どんな返し言葉もこの場面では通用しない。
言葉に詰まる訳にもいかない。
泣きたくなる。
いっそ誰かに
「仕事がやり切れない。もう逃げ出したいんです」
と、聞いてもらいたいと思ったり弱気になることが度々ある。しかし、私は仕事上の”辛さ”を他で語ることをしない。「弱音を吐かない」と決めている訳ではない。”弱音”なんて吐けばいいとむしろ思っているぐらいだ。
私はこの仕事を始める時、ひとつだけ”覚悟”をした。それは時々ぶれたりもするが、一応今日まで”弱音”に頼らず来ることが出来た。決して良いことだと思っていない。その”覚悟”というのは、「”辛い””苦しい””やり切れない”と思えるということは、私が”生きて”いるからなのだ、を忘れない」というものだった。
こんなスタンスを私は「最大限の誇り」と名付けて大切にして来た。耐えるという”圏内”を大きく広げられることになり”生きる”ことの”苦”をやわらげることが出来るのだ。私はきっと弱虫なんだろう。また、「弱虫上等」だとも思っている。そんな弱虫が”生きる”ことを容易にする考え方を求めたらいいと思っているから・・・「自身の救済」をしたらいいのだと軽く考えられる。
確かに「花の命は短い」
切り花は決してもう二度と花を咲かすことはないのだが、一年草でない限り根があるのなら、また翌年花を咲かす。これが「花の命は短い」の”圏内”を広げた考え方である。花は翌年また花を咲かす。だから、花の人生は決して短くはない。
携帯電話が出始めた頃、ちょっと郊外に出掛けるとすぐに”圏外”となった。笑うしかなかった。中継アンテナが設置されていなかったからだ。それが携帯電話を普及させる課題であったため急がれた。今では滅多に”圏外”となることはなくなった。助かる。”圏内”の範囲が広がることは”安心”なことなのだ。しかし、「広がる」ということは放ったらかしでは無理だ。広がって当然では決してない。簡単に”安全””安心”は手に入らないのだ。僻地・山の中に中継アンテナを苦労して設置して”圏内”を広げたように、私たち自身の”救済”のために私たちは「最大限の誇り」を駆使して、”圏内”を広げたいものだ。
つい先日テレビで「鬼平犯科帳」の再放送を観ていた。頭・鬼平の密偵で親分格である綿引勝彦氏演じる五郎蔵が言う。「悩んで苦しんで、人にも言えず辛い時、右か左かの判断を迫られたら、”てめぇを捨てる”ことだよ。欲が絡んで何ともならねぇからな。そして遠くの景色でも眺めるんだ。新しい道が見えてくるもんさ」なるほど「合点承知」と私は手を打ち、渋い五郎蔵の台詞を素早くメモした。目から鱗だった。いつも、私はこんな台詞に助けられている。欲が絡んだら、見えるものも見えて来ない。「めんどくせぇから、てめぇを一旦捨てて、他に目をやってみな」ときた。確かにその通りだ。「合点承知」
あのクライアントの言葉に悲しくて痛くて身動きできなくなった時、私が探し求めていた”共感”のあとの言葉は・・・これしかない!と確信した。人は弱くて、怖いものだらけで、勇気が持てなくて、自分が嫌いなものなのだ。誰にしてもそんなものなんだから、自分だけダメだなんて思うことはない。
”圏内”を広げてみよう。
”生きて”るだけで見つかるものだ。
”生きて”いるから悩み・痛む。
欲に指図されないために、欲を持つ自分を捨てる。
人生は短いが雄々しい。
困ったら逃げてみて”間”を置いてみる。
こんなことを考えながら”生きて”みよう。
人生って捨てたもんじゃない、というのが見えてくるから・・・。