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(36)幸子 ー もうひとつの京都

城跡から町が一望できた。
三方をなだらかな、どちらかというと女性的な山々に囲まれた箱庭みたいな町に、幸子は疲れが一気に癒されるのを感じた。城跡からは、碁盤の目状に道が造られてあり、どの道を歩いても格子窓の民家が並んでいる。寺が多いのも驚かされる。どこか京都に似たところがあるな、と幸子は思った。幸子は、観光客の乗った馬車が通り過ぎるのを待って、辰鼓楼をファインダーから覗いた。想像していたより高く、二十メートルほどあるように思われた。今は時計台として町のシンボルになっているが、袴腰づくりの建造物は、ほとんど見られなくなった。苔むした石垣の上に、かわら屋根・・・都会のアスファルトとコンクリートに比べると、目にも心にも優しいと幸子は感じていた。
「やっぱり来て良かった。いつか、この出石へと思い続けてたんだけど・・・出来る事なら仕事のついでじゃなくて、カメラも持たないで来るべきかもね」
幸子は苦笑いをしながら、心のどこかで昨日まで仕事をしていた京都と比較してみるのだった。

幸子はフリーのカメラマンである。都内の写真専門学校を卒業して、大手女性誌のカメラマンとして入社した。専ら、旅のコーナーを担当し、写真はもちろんの事文章も手掛けていた。針穴写真機を使用したり、モノクロフィルムで叙情的なショットを載せたりもした。幸子が旅のコーナーを担当してすぐに、読者から大きな反響があった。四ヶ月後くらいには部数も相当増えたのだった。好評だったことや、読者からの要望もあって、本誌から旅のコーナーだけが独立し、新しい旅専門の雑誌が発行された。しかし、一方で幸子は、複雑な気持ちで取材に回る毎日だった。言ってみるならば、幸子の仕事ぶりが評価されたわけだが、雑誌の部数が伸びれば伸びる程、自分の撮りたい写真から遠ざかっていく不安があった。

撮りたいテーマだけを撮りたい、と、強く思えば思う程、どうにもシャッターが押せなくなるのだった。三日の取材予定が四日五日となり、一枚の写真も撮れないまま社に戻ることもあった。先の予定のないまま辞表を書いた幸子に、編集長は、
「いいだろう。君も良くやってくれた。若いんだから好きなものだけを撮ったらいい。今からなら決して遅くない。君のおかげで我が社も部数を伸ばせた。・・・有能なカメラマンと読者を失うわけだが、君の将来を我が社の勝手にすることは出来ない。いいか、撮りたいものを撮って俺に提出すればいい。我が社で写真集を出版しよう。新しい分野の開拓だよ・・・頑張れ」
幸子にとっては、予想外のデスクの反応であった。

京都に張り付いて一年、四季折々を撮り続けた。張りつめた気持ちが一気に緩んだ。この秋には、三冊目の写真集が出版される予定である。幸子はシャッターを押しながら、絶えず頭の中で写真集の題名を考え続けていた。いつにもなく、はっきりとイメージが固まらないのであった。そんなこともあったからだろうか、撮影が終わっても帰京する気になれず、機材だけを送り、特急きのさきに乗った。豊岡までの二時間半、幸子は目を閉じて、この一年京都での仕事ぶりをふり返った。あこがれ続けていた京都を被写体にするには、相当の勇気が必要だった。撮り続けながら幸子は絶えず不安を抱えていた。自分の技術のこと、自分の視点、さらには京都に関しては相当数の写真集が既に出版されていることを考えると、被写体として重過ぎるのではないか。幸子にとって、一、二作目と比較してみると、決して心が弾むこともなかったし、何故か考え込む時が多かったような気がした。題名のイメージが湧いて来ないのも、そのひとつかも知れないと幸子は思っていた。それは、歴史の持つ重みからなのか、それともあこがれ続けたイメージの中の京都と、現実の京都との落差からなのか、幸子にもはっきりと掴めなかった。
車中、幸子は考えるともなく複雑な気持ちのまま揺れて過ごした。時折車窓に目を移すと、山陰本線沿いの山並みはまだ新緑がまぶしかった。

突然思いついてのことでもあった為、幸子は宿に困った。せっかく出石まで来ているのだから、少し足を延ばして日本海沿いに宿を探した。竹野海岸の休暇村宿が予約出来るらしいということであった。小高い丘の上の宿からは、竹野海岸が一望出来た。聞いていた通り、奇岩怪石で変化に富んだ海岸線は、一種独特の雰囲気があった。決して、太平洋岸には見られないものである。職業柄なのか、幸子はすぐにカメラのレンズを望遠に換え、ファインダーを覗いた。しばらく周りの景観をレンズ越しに楽しんだ後、一度もシャッターを切らずにカメラをバックの中にしまった。
「悪い癖だわ。私って何でいつもファインダーを覗くのかしら。眼で見ることをしないとダメだわ・・・。カメラは仕事だけで十分じゃないの」
そう独り言をつぶやいた幸子は、窓を開け放って、少し湿っぽい海の風を部屋に入れた。潮の香りがスッと部屋を埋めるのがわかった。
「イカ漁の漁火を見たいので、夕食を遅くしていただけないでしょうか」
幸子はフロントにそう電話を入れた。暮れかけの空は、急に重そうに様子を変える。雲が落ちかかった陽の残光に照らされて、のっぺりとした銀色に、かすかにオレンジ色で縁取りされ、浮き上がって奥行きを感じさせた。何とも言えない不思議な光景であった。幸子はふと、
「これはカメラで表現できない・・・。この不思議さは、この場所以外に持ち込んだところで意味を成さないわ・・・。いや、私の技術の限界かも知れない・・・。切り取って、焼き付ける自信はないわ・・・」
そうつぶやいた。

タッタッタッタッタと、どこからかイカ漁に出る船の音が聞こえて来た。すっかりと暮れた空は、青紫色に変わって、空と海の境界がはっきりとしなくなった。沖合いに、オレンジ色と紫色の漁火らしきものが揺れていた。相変わらずタッタッタッタとエンジン音がかすかに聞こえていた。幸子は無言のまま、沖合いをじっと見つめ続けた。今まで感じたことのない不思議な思いがしていた。いつもなら、この場面で必ずカメラを用意してファインダーを
覗いているな、と、幸子はそう思った。そして、何回かシャッターを押し、記録しようとしているだろうな、とも思った。ファインダーを通してではなく、自らの眼でこうして沖合いを見つめていると、今までにはない不思議な世界が見えることに、幸子は気づき始めていた。今までは勢いだけでシャッターを切って来たんじゃないかと思えた。被写体をどれだけ見つめて来たのか・・・自らの眼で・・・とも思った。そう思うと、一年にも及ぶ京都の仕事は、初めから被写体への先入観があって、心のどこかに撮るものが決まっていたかに思えて来た。当たり前にあるものを、撮るのは当然という姿勢だった気もする、と、幸子は思った。心が弾まなかったのは、そういうことだったのかも知れない、と、幸子は理解した。
「やり直そう。一年かけて古都京都を撮り直そう。費用も随分掛かったけど、節約して、本物の写真を撮ろう。もう一年掛けて納得のいく仕事をしよう」

幸子は、胸がドキドキした。
そういう感覚は、久しぶりのことだった。


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