(132) 「不完全」上等
「人や社会から認められる人間でありたい」
「社会に貢献出来て、必要とされる人間・・・」
と、誰でも少なからず心で願っている。
”自己効力感”と呼ばれている。それが無いと、ますます自分が”無力”で”不完全”だと思わざるを得ないこともあり、その反動からその”自己効力感”をずっと願っているものである。本当に人って健気だ。
その願いは例外なく誰しもの願いであり、決して間違った願いのはずはない。しかし、気をつけなければならないことを多く含んでいるから、漠然とそれを願い生活するのでは大きな穴に落ちてしまう危険があると思う。
「先生、何しろ〈人から認められる人間〉でありたい?ならなければならないと思っているそんな僕ですが、人が僕を認めるって、何をしたら認めてもらえるのかわからないこともあるからか、どうしていいのか身動きが取れません」
などと、ちょっと安心しているとこんな難問を吹っ掛けられることが度々あり、気が抜けない毎日だ。
「何?そちらが先なの?」
「そちらが先?って何のことですか?」
「あぁ、ごめんごめん。君が何をしてどう生きるのかが先ではなくて、人は私を認める為には何を求めているのか?が先なのか?という意味なんだけど」
「はぁ、確かにそれはそう考えるのが大切ですよね。どう考えても僕にはそういう発想は全く出てこないんです。どこか成長し切っていませんよね?」
「成長し切っていないとはちょっと違います。だって幼ければ幼いほど、人や親のことより <自分はどうしたいのか?> というのが優先される訳だから、君は <何を望まれているのか?> を優先して考えるなんてのは、むしろ《成長した》《大人になった》と言っていいんだと思うよ。だから成長し切っていないというのはちょっと違いますね」
人ってこういうものだ。自分自身のことが最優先だった幼い頃・・・他者が自覚できて自分勝手にはいかないということを学ぶ・・・人に共感することを学ぶ・・・人にどうしたら貢献できるか?を取り入れ、他者との異いに気づき、共に生きることについて考える。”成長”とはこういうものだと思う。しかし、その途中思ったようには進まないことが多い。なかなか順調にはいかないのが現実なのだ。”迷い”や”自信のなさ””不安”が邪魔することになる。
「~ですよね」などと人に向かって言うと、「いいえ、それはちがいますよ。~ですよ」と返され、「自分が否定された」と大げさに考えてしまうとしたら・・・その積み重ねが、こんなことをいったらきっと馬鹿にされる、嫌われると思い過ぎ、”意志”や”思い”を伝えられなくなるものだ。「自分を守る」ことを優先するしかなくなり、”本音と建前”を上手に使い分け、自分を隠して生活することになる。”他人軸”で生きることになる。『(112)自分軸で生きる 参照』
黙っていて、人の顔色をうかがいそれに合わせて生きることが安全だと思うようになってしまう。確かに人との摩擦は起きにくくなるかもしれない。しかし、しまい込んだ自分の”本音”はどうなるのか考える余地さえ失くしてしまう。
「君は十分成長して大人的に振舞っていますよ。その途中でね、君なりに怖いと思うことや二度と無理だと不安になることなどを経験して考えた・・・安全・安心を優先してね。君なりに必死だったと思う。嫌な思いなんかしたくないからね。でも時を経て今、行き詰ってしまった。身動きできないと。どこかで無理をしたのかな、と思います。今、気づいた訳だから儲けものですよ」
どうしたらいいのか「道がある」と気づけたからか、彼の顔色が大きく変化した。薄っすらと笑みが浮かんだ気がした。
「私なんかさ、四角い器の中で丸くなり、丸い器からはみ出して生きるしかないですよ(笑)”不完全”上等。当然ですよ。人は誰しも”不完全”なものですよ。それで良いと思いませんか?私なんか、こんな歳になってしまいましたが”不完全”なままですよ。ただ、<それで良し> と言い聞かせの連続ですけど(笑)」
「伸びろ、伸びていけ」と、私たちは教育を受けた。しかし、よく考えたら「この方向に伸びると良いよ」とは教わらなかった。何故なら、人はそれぞれだから自分と相談しながら伸びたら良い、ということだ。あとは自分の
”個性”を活かして自分なりでいい。ただ、”完全”であろうなんて思わない。”完全”に向かって日々生活するけれど、なかなか”完全”という領域には誰も届きはしない。それで上等!
この世の中にも”完全”なものなんて存在しない。”完全”を求めたのだろうけど、結局”不完全”なまま世に出されているもの・・・電化製品や車にしても”完全”であるのなら「リコール」なんてあり得ない。私たちはその度ごとに「仕方ないな」と寛容に受け入れて、それに従っている。日々”完全”を目指して、新しい価値観を取り入れ、自身の足りない所の修正を図り、「こんな人間になりたい」をにらみながら生きている。それぞれに”変容”を望み努力するのだが、なかなか思う様にはいかない。それで十分だ。どちらを向いて生きているのか、それがはっきりしているのなら、それで何も心配はいらない。”不完全”であることを認める勇気だけは必要だ。
幼い頃、母からよく言われた。
「人様があなたを <忘れない人> になれるといいね」
と、一時も母のこの言葉を忘れたことはない。
今ではみんなから「置き去り」になったままだ。どんどん忘れられて記憶に残らない人でしかない。しかし、私は今もそれに向けて努力を続けている。母の大切な教えであるから・・・。私はどんな時も”結果”は問わない。