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(69) 伊織 ー ゆらいで そして

この電車の方が便利というわけではないのだが、伊織はいつものように高円寺から各駅停車に乗った。いつものように最後尾で四谷駅の広い改札を出ると、大きな動作で深呼吸した伊織は、
「今日は、雲ひとつないなぁ。でも寒い・・・」
と、語尾のはっきりしない言い方をして、「Y・S・S」へと急いだ。一日のうちで伊織が急ぐのは、この時くらいのものである。「Y・S・S」とは何の省略なのか誰も知らされていなかったが、古ぼけた喫茶店の屋号であった。「Y・S・S」はローマ字で屋号が付けられるような代物ではなく、田舎へ行くとよく見られる白壁造りの小さな土蔵といったところであった。白壁も本物造りではないらしく、所々剥げ落ちていたりしている所を見ると、土壁に白い塗料が吹きつけてあるだけのものであった。おおよそ、この四谷界隈のビルの立ち並ぶ景観にはマッチしていないのだが、それが逆に風情を醸し出し、道行く人々に温かさを与えているのかも知れなかった。何しろ、いつ訪れても店は客でいっぱいだった。伊織が急ぐのは、隅の窓際の席が気に入っているらしく、その席を取るためであった。

店の与えるイメージとは似ても似つかない風体のマスター、いや親父が、たった一人で注文をこなしている。それもそのはずで、カウンターの客にはソーサーがつかないし、ボックスの客たちは自らコーヒーを席まで運ぶ。それでいて、誰ひとり文句も言わず、思い思いの時を過ごし、賽銭箱とかかれた木箱に各自コーヒー代を入れて店を出て行く。誰ひとりとして、つり銭を要求する者がいないのが面白い。伊織は、会社訪問の帰りにこの店を見つけて以来、ずっと通い続けていた。何が、というわけではなかったが、この店の独特の時の流れが妙に伊織のテンポとマッチしているのだった。夜の八時半を過ぎる頃、誰かが号令でも掛けたように、一斉に客が出て行く。それからの二十分が伊織にとって、好きな時間帯であった。決まって伊織ともう一人、三十半ばの男性が残ることになる。
「コーヒーにしたところで、同じ豆を毎日同じように焙煎して、同じ目盛りで挽いたものを、同じ人間が同じ器具で入れているのに、味が毎日違うんだよね」
誰に聞かせるふうでもなく、親父が独り言をつぶやく。カップを洗う水音が、時にリズムを壊しながらシューとステンレスのシンクに流れ落ちる。コッコッコと柱時計の振り子が律義にも音を刻む。客が引けて静けさを取り戻した店内は、ひと時空気が緩む。伊織は、自分の身体がその空気に合わせてゆったりと緩んでいくのを実感した。
「これよね。これだわ。毎日、決まってこの実感が味わえる」
伊織は、そう心の中でつぶやいた。

午後の会議の資料作りのため、伊織は午前中のほとんどコピー機を動かし続けた。
「今日はお昼ご飯食べられないね」
同期の緑が、不満そうな顔つきでそう言った。
「そうね。まあ、仕方ないわ。毎月、私たち貧乏くじ引くもんね。緑、私コーヒー入れてあげるから、あと少しで終わりだし頑張ろ」
二人は陽当たりの良い窓際に移動し、外を眺めながら並んでコーヒーを飲んだ。
「コピー室って十六階だよね。伊織、感じない?このビル、揺れてない?」
「え?本当に?」
「遠くの方、あっち見て見て。あそこに目を置くと揺れてるって感じない?」
「ああ、なるほど。そう感じるね。確かに揺れてるみたいに感じるわよ」
「みたいって、このビルが揺れてるんじゃないのよ伊織。これって錯覚なの」
「私もよくわからないけど、冬場の晴れた日によくあるよ。きっと空気の流れが遠くの景色をさ・・・説明出来ないけど、たぶんそういうことよ、緑」
「ふう~ん、そういうことか。伊織、あなたなかなかの者ね。そういうこと、ちゃんとわかるんだから」
「それより緑、あと少し頑張ろ」
「夜は久しぶりに食事でも行こうか」
「そうね。お昼食べられないし、定時にさっさと退社して、ホテルのビュッフェにでも行こう」
「そうしよ、そうしよ」

定時退社だった事もあって、「Y・S・S」はそれほど混雑しているわけではなかった。緑が三十分ほど残業しなければならないということで、伊織はここで待つことになった。日が長くなったのだろう、窓からは駅辺りまでが容易に見渡せた。コーヒーを待ちながら、伊織はぼんやりと外を眺めていた。電車が到着するたびごとに、乗客の一群が改札口から掃き出される。掃き出された乗客たちは、立ち止まることも、躊躇することもなく、足早に自分の定められたコースを移動する。まるでプログラムされているように。伊織は、胃の辺りをそっと右手で押さえた。近頃、こんな光景を見るたびに、胃の辺りがモヤモヤして吐きたい衝動に駆られるのだった。伊織は、マグカップを手に取ると、椅子をぐるりと回転させ、体全体を窓際へ向けた。大きめの窓ガラスであるが、格子になっていて、縞に分けられて外の光景が目に映った。半分ほど残ったコーヒーを、カップの中でぐるっと回した伊織は、少々下品かなと思いながら、ぐっと飲み干した。冷めていたからか、食道を流れ落ちていくコーヒーの実感が、伊織には強い印象として残った。見るともなく、外の雑踏をただぼんやりと眺めていた。食道を流れていったコーヒーの印象が、かすかに残っている。伊織は、また胃の辺りに右手をやった。もう、モヤモヤした感覚は消えていて、空腹感だけがあった。

「伊織、ごめんごめん。おじさん、今日は急いでるから、コーヒー飲んでいかないからね」
騒がしく、いつもの調子で緑が入って来た。
「おじさん、ごちそうさま。いつもこのコーヒーに助けられてるわ、ありがとう」
賽銭箱に五百円玉を入れると、伊織は緑の後に続いて店の外へ出た。三月だと言うのに、結構風が冷たく感じられた。スプリングコートの襟を立て、首元から結んだスカーフを少し引き出した伊織は、緑の横に並んで、道路を駅舎の方へ渡った。
「伊織、待たせてごめんね。課長って、やっぱり仕事出来ない人だわ。お腹空いたでしょう?いっぱい食べようね」
「そうだね。今日は本当によく働いたもんね。おかげで、紙で指切っちゃったわ」
伊織は、左人差し指を緑に差し出して見せた。
「痛そう・・・」
「うん、もう平気だけどね」
そんな会話をしながら、二人は自動化された改札の中へ、吸い込まれていった。辺りが暗くなった分、「Y・S・S」の大きめの窓から、柔らかなオレンジ色の灯りが漏れてくるのが一層よく見えた。


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