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(75) 由子 ー 黄昏に佇んで

久しぶりの梅雨の晴れ間だった。
真夏のそれとは違って、どこかしら暑さもさわやかに感じられた。由子は、駅前のバス停で時刻表を見ながら、「チッ」と舌打ちをしてみせた。日曜日ともなると、ウィークデーとは違って各段にバスの本数が減るのである。歩くには少々距離があるなと思ったが、一時間待つのも厄介だとも思い、由子は、
「荷物もないことだし、ぶらぶらと歩いてみるか」
とつぶやき、歩き始めた。由子にとっては、懐かしい道でもあった。進学のことを考えると、どうしても地元の高校では不足と、駅まで三十分の距離を自転車で、JRに乗り金沢まで毎日進学したのだった。

由子の生まれ育った羽咋市は、能登半島の入口に位置し、遠浅の海水浴場と車が走行できる千里浜なぎさドライブウェイで名が知れていた。由子は、白砂の海岸に沿った県道を歩きながら、昔よくした深呼吸をしてみた。潮の香りがした。懐かしい思い出や、苦しかった受験時代がふと蘇った。今回の帰省が、父の入院ということでないのなら・・・と、由子は少々気持ちが重かった。

「田代健太郎の部屋はどちらでしょうか?」
由子は病院の総合案内の窓口でそう尋ねると、
「田代さん・・・305号室になります。今は面会時間ではありませんけど、ご家族の方ですか?」
「それはわかっているんですが、東京から戻ったものですから、この時間でないと都合がつきませんので・・・何とか」
由子は、心配そうに小さな窓口へ身を乗り出し、そう言った。
「ご家族の方でしたら結構ですよ。どうぞ」
「ありがとうございます」
由子は一礼すると、エレベーターへ向かった。

「305号室か、六人部屋だわ・・・良かった」
胸を撫でおろしながら由子は、そう独り言を言い、開いているドアから部屋の中をそっと覗いた。健太郎は窓際のベッドで点滴中らしく、じっと天井を見上げていた。
「父さん」
由子は、周囲を気遣ってか小声でそう声を掛けた。
「おう、由子、よく来てくれたなぁ。仕事大丈夫なのか、申し訳ないな心配かけて・・・。大したことはないんだよ」
由子は、折りたたみの椅子に腰を下ろし、
「血圧ってのは心配なんじゃないの?父さんが血圧高いなんて気がつかなかったわ。それで、どうなの?」
「ひと月程前から、ちょっとふらつくなと思ってたんだけど、このところ忙しくて休むわけにはいかなかったからなぁ・・・」
「ダメじゃないの、自覚症状があったんだから、すぐ診てもらわないと。仕事、仕事って・・・昔からそうなんだから」
健太郎は、由子の言わんとすることがわかるのだろう、じっと天井を見つめていた。
「もう若くないんだからね。無理のきく身体じゃないんだろうし、今までのように仕事は出来ないんだよ。兄ちゃんも言ってくれてるんだし、仕事整理して金沢へ行ったら?どうしても仕事続けたいんなら、兄ちゃんの所から通えば良いんだし。意地張って羽咋にいることないよ、どうなの父さん」
考え込んでいる父の様子を見とってか、由子は立ち上がると、窓のレースカーテンを少し開け、よくは見えないのだが海の方へ目をやった。

進学の為、上京して十年になる。兄は、羽咋から金沢の大学へ通っていた。男二人世帯では、さぞ不自由だったんだろうことを思うと、由子は胸が痛んだ。窓際で、外に目をやったまま由子は、
「父さん、大変だったね。私さぁ、ずっと父さんのこと気になってるの。進学の時も、就職の時も何も言わなかったもんね。お前の思うままにやったらいいって言ってくれたもんね。どんなにかその言葉が嬉しくて、私、甘えてきたんだ。本当は母さんいない分、私がやらなきゃいけないんだよね」
由子は、間をとりながら、噛みしめるように話すと、勇気を出して父の方をふり返った。健太郎は、点滴のコードを右手で支えながら、向こう側へ半身になっていた。由子の想像通り、涙が出ているのを娘に見られたくないのであろう。
「父さん、必要なもの売店で買って来るからね。ちょっと待っててよ」
気を遣ったつもりであったが、自分自身も大粒の涙が頬を濡らしていた。

由子は、何か重苦しいものを感じながら、海沿いの道を歩いていた。駅までのバスは、すぐにあったのだが、何だか歩いてみたい気がしたのだった。高校の頃、学校帰りによくこの辺りに来たものだった。何がどうということではなかったが、黄昏時の海が好きだった。陽は傾くにつれ、一層その色合いを濃くするのだった。由子は、そんな海をよく眺めたものだった。日没寸前に、陽は海との接点あたりで一瞬パァッと輝きを見せる。その後、金箔を貼った鱗のように、海がキラキラと余韻を引き受けるのだった。由子は、そんな黄昏時がたまらなく好きだった。学校で何かを学ぶことよりも、友人と楽しく過ごす時よりも、そんな一瞬を見届けることの方が大切に思われて仕方がなかった。潮の香りも、吹く風も昔のままだった。
「懐かしいわ、この香り、この風の肌触りも・・・。この実感、忘れてたわ、これよ、これだわ」
先程まで重たかった気持ちは、何故だか軽くなった気がした。
「あの頃の私、何を思っていたのかしら」
ふと、由子はそう思った。

「確かに、父や兄の犠牲になって家に居続けることに耐えられなかった。勉強がしたいと言うよりも、家を出たい一心だったわ。出来たら東京が良いぐらいの気持ちだった・・・。きっと、そんな自分を納得出来なかったんだわ。何かを考えようとしたんだけど、一方で考えることを止めようともしていた。毎日、学校帰りにここへ来たのも、そんな意味だったのかも知れないわ。ちょっと遅いかも知れないけど、もう考えることから逃げるのをやめよう・・・そうだ、いい機会かも知れない」
由子は、何かを思いついたように立ち上がると、おしりの砂をポンポンと払い、大きな背伸びをした。
「今日は久しぶりに実家に泊まるとするか。会社休んだことのない由子ちゃんだから、朝、休みますって電話したっていいか。もう一日、父さんの顔見て考えるとするか、これからどうするかってこと・・・をね」
由子は、ちょっとふざけた表情で独り言をつぶやいた。シューと音を立てて、花火がすっかり陽の落ちた空にパァと広がった。ザァー、ザァーと海の音が陽が落ちると同時に、大きな音になったように感じられた。

「自然の音は、こんなに優しいんだわ・・・東京じゃ決して聴けない音だわ。何だか、すうっと疲れが消えていく感じがする」
由子は、軽い歩調で海沿いの道を歩いた。久しぶりに、昔のあの頃の想いが蘇ったからなのか、それとも、決意しようとしていたことの答えが見つかりかけているからなのか、由子自身にもよく分からなかったが、この数年感じたことがない心の軽さを実感していた。


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