見出し画像

(148) 思考と感情

クライアントの訴えは様々だ。
私は慎重に聴くことを心掛けている。

その訴えの多くは、ほぼ何かが起きて自分がその起きたことに充てた”感情”がどうであるかなのだ。充てた”感情”は決してプラスのものではなく、マイナスのものである。その”感情”の最たるものは「絶望だ」「もう死にたい」「最大級の不幸だ」となる。その最たる”感情”などは、普通の生活であるのなら決して一生一度たりとも使うことはないだろう極端とも言うべき”感情”である。聴くだけでやり切れない気持ちになる。

誰にしても、そういった”感情”を抱いたとしたら決して笑顔でいられることなど出来はしない。ため息をつき項垂れて部屋にひきこもることしか出来なくなる。食欲不振・不眠に襲われるに違いない。怖いことだ。人は日々の生活の中でどのようにその”感情”を充てるのだろうか、というシステムを理解しておかないと振り回されてばかりとなる。私たちは何かを見る。目の前で何かが起きるとする。これは生きている限り避けることは出来ない。見たもの・起きたことを当然私たちは私たちの中に取り入れる。この入口にレンズがあると思って欲しい。フィルターと言ってもいいかも知れない。このレンズ・フィルターは”中核信念”と呼ばれている。あなたの信念の中核を成すものという意味から名付けられている。これが曲者なのだ。このレンズ・フィルターは要するに自分・他者を受け入れているか否定しているかを練り込んであるものだと考えて欲しい。練り込まれているのだから、また、そのレンズ・フィルターを通すのだから、その思いが加味され、影響を受けてあなたの中に取り込まれた時は、自身を他者を肯定するのか否定するのかが映し出されたものとなる。否定が強ければ強いほど「ネガティブ」に傾いて取り込まれるという訳だ。

そんなことなら、その”中核信念”を変えたらいいじゃないかと聞こえてきそうであるが、そんな簡単なことではなく、それは曲者なのだ。自分を他者を肯定するか否定するのかという構えは、長期にわたって出来上がった歴史があり、不都合だから取り換えるかなどという簡単なものではない。言うならば自分に染み付いた、剥がすことの出来ない程のものである。自分も他者も出来るなら肯定出来ることがどんなにか大切であるというのは、こういう意味からだ。

”中核信念”を通過して自分の中に入ったものは、すぐさま自分独特の思い込み・信じ込んだもので加工されると考えて欲しい。この加工の過程が”思考”ということである。一瞬でありほとんど無意識にしてしまうものである。もうすでにこの時点で客観性は失くなってコテコテの私の思い込みでコーティングされてしまっている。あっという間の瞬間であるから、途中、手を入れ冷静に書き換えることはほとんど無理である。どんなにか、この”中核信念”というレンズ・フィルターが大切なのかを知らねばならない。加工されたその「情報」は事実からかなりかけ離れたものとなってしまう。言い換えるなら、見たものを自分の先入観・思い込みに基づいて意味づけされたものということだ。意味づけされてしまったそれに基づいて、”感情”がやっとのことで充てられることになる。日頃「ネガティブ」に考えることが癖になっているとしたら、その”感情”が充てられることになる。そうして生まれた”感情”も大いに曲者なのだ。「ネガティブ」に傾いているとすると、その”感情”に圧倒されてそれ以後”思考”が止まってしまうのだ。「頭が真っ白になる」ということがそれの一端である。「ネガティブ」な”感情”は、どんなにか人を苦しめ”思考”を奪うか、ということなのだ。

”感情””思考”は私たちが生きていく上で何よりも大切な要素である。なぜならその二つは自分の人生を左右してしまうものだからだ。お互いに、この世に生を享けて以来、人生の難しさに時に倒れてしまいそうなこともあったはずだ。「ラッキー!」と叫んで大喜びしたことも・・・。その時々に私たちは学び、自身の人生を決して諦めずにより豊かで楽しくて良いものに変容させていこうとしてきたはずだ。そんな大切な大切な一度っきりの人生なのだ。それを、何かを感じとる入口の”中核信念”ごときに曲げられてたまるか!と思う。その”中核信念”をよく理解して、この自分にとってよりよい人生を生きる為に、どうしたらいいのか考えてみたいものだ。自分と他者をどうみるか?これに尽きると思う。どんな経緯で他者を信じ切れず否定する構えにしてしまったのか、また、自分を何故否定するようになってしまったのか。これが物事を見極める「目」となっている。怖いことだ。否定の構えが「ネガティブ」な”思考”を作り出す。

それなりの物語があった。
思い出すのも嫌に違いない。
心に深い深い傷がついたとも思う。
きっとそれらを防衛するために構えを作ったはずだ。
だから、仕方ないよね・・・と私は決して言わない。
私にもそれらが巣をつくっている。
私の傷は深いと自覚がある。
私は投げだしたら「終わってしまう」と思うから、出来ることだけやってて、変容を図りたいと強く思っている。

例えば、人に貢献してみたらどうだろう。
そんな姿勢で人は集団に入っていったとしたら、きっと人は私が思って来たほど怖い人たちではないとすぐに気づくはずだ。また、そんな自分を自分で否定などするはずはない。怖さ・自己否定のため自信を失くして身動きが取れないと思う心の動きの中に居る限り、何も起こらなくて安全だと思っていたら、それは違う。安全どころではない。その姿勢が”中核信念”そのものを不健康なものにしてしまうからだ。決して安全ではない。むしろ危険なのだ。自身を信じ肯定し、他者っていいものだと信じ肯定する構えで生きてみないか?”安気”になるよ。入口から入ったものを自身の”思考”でどう意味づけるか、それが全てだと思う。