(7) 心の幽閉
考えてもみればこの仕事をして半世紀が過ぎる。普通はそこまでに心身共に疲弊して耐えられないことが多い。辞めてしまわれた先生方を何人も存じあげている。
何故私は続けていられるのだろかと考えてみるが、自分でもよく分からないのだ。”健康” ”タフ” ”参らない””あきらめない” が続けられる相場だろうが、どれも違う気がする。正直言ってよく分からない。まあ、そんなこと大した問題ではない。
そんな私であるが、本当に困り、やり切れなくなり潰れそうなケースが稀にある。五年、いや十年にお一人位の割合になるだろうか、あるのである。
私はクライアントの悲しい、やり切れない、辛い訴えをお聴きしたとしても参ることはなく、どう伴走したら良いのかその道筋について考えが及ぶ。面接室で深く長い沈黙が続く。この仕事は沈黙こそが大切で、聴き手である私はその沈黙の意味を考えながら何分でも待てるし、充分に慣れている。クライアントを急がせたりはしない。主訴たるものを最初にお聴きするのであるが、それを語られることもなく、ただただ涙を流されうなだれたままなのである。充分に落ち着かれる時間はあったと思われるのに、である。
「その涙の意味をお話しください。そのやり切れないお気持ちを是非、どこからでも構いません。私の頭で整理しますから、どこからでも大丈夫ですよ」と、私は呼びかける。クライアントの頭がよりうなだれ、倒れてしまわれるのではないかと思われる様相で声が出て来ない。
私は、その空気を変える意味もあり丁寧に小さな声で噛みしめるように言う。
「一、ご自身の内面を外に出すことが出来ない。苦しくてやり切れなくて言葉にならない。また、今までも人に内面を話せたことがない」
「二、恥ずかしい訴えだから言葉にならない」
「三、初めてのカウンセラーで、話して良いのか迷いがある」
「四、親にカウンセリングを勧められ、無理矢理連れて来られて話す気持ちになれない」
「五、それ以外」
「この一から五までのどれがその理由でしょうか?それ以外なら”六”と指で結構ですからお答えください」
私が潰れそうになるのは”一”と答えられるクライアントなのである。それは決まって、幼い頃から承認される機会がないばかりか否定ばかりされ、高い要求に応える指示をされたり、感情的な禁止令で傷ついたり、無視され、時に虐待され、散々に痛めつけられた後遺症からであることがほとんどである。
”心的外傷後ストレス障がい”などと名づけられているが、その程度で済まないケースが多々あるのである。
「心の幽閉」とでも言うべきである。私はこのケースにのみ潰れてしまうのである。カウンセラーが潰れてどうする!などと思ったり、気持ちを持ち直そうと懸命に努力するのであるが、気を失ってしまうほどのダメージを受けることになる。もう二度と立てないとさえ思う。
私の愚息の所に五歳になる孫娘がいる。その孫娘が三歳半の時、第二子が産まれた。ママが出産の為に入院の折、無事二子が産まれて落ち着いた頃、我が家に預けられているその孫娘が心配だったのであろう、ママから私の携帯に電話が入ったので孫娘に渡すや、久しぶりのママの声に大喜びで、甘えた口調で
「うん、うん、だいじょうぶだよ。ママはだいじょうぶ?あかちゃんげんき?おとこのこだね、たのしみだよ。うん、わかった。あかちゃんかえってきたら、おせわしま~す。うん、じゃあね、バイバ~イ」
と、携帯電話を私に渡すと同時に、
「あーめんどくさ!あかちゃんオムツめんどくさいよねぇ。うんちなんかしたらめんどくさいね。いやだよーっと」
「えぇ?ママに言ったのと違うじゃない?」と、言う私に、
「じいちゃん、そんならあかちゃんのうんちしたオムツかえれるの?」
「パパが赤ちゃんの時に何回も何回もオムツ替えたよ」
「いや~なこった」
今年五歳になった孫娘は、自身の正直な気持ちを、抑圧などせず素直に言いたいことを言う。まるで遠慮はなく、こちらは散々な目に合う。私はこれが嬉しいのである。まるで健全である。嫌なことは嫌だとはっきり言い、パパやママに信頼され自由にさせて貰い、全能感が満タンなのであろう。
この全能感とは万能感とも呼ばれ、乳児の頃から幼児期ぐらいまで子育てに参加した人たちとの間で結ばれる信頼関係が基となり、”私は大切にされていて安心である”という感覚である。後にこの感覚は、自分・他者を肯定出来るか否定してしまうのかという人生上の構えを作る基となるものである。今、満タンであるとしても、いずれ規律ある学校で集団生活をする時が来たら、どんどんこの全能感は削られるに違いない。今は肥大するほどの全能感で大丈夫なのだ。わがままになるのではないか・・・と心配する向きもあろうが、全然大丈夫である。集団に入り、規律のある中で場をわきまえ自身を大切にし、他者を大切にすること等を含めてコントロール出来るのは、全能感を充分に持った子どもたちなのである。
一方祖父であるこの私は、美容院を営む家に育った。母のお弟子さん二人が住み込みであった為、三人の母の手で育てられた様なものだ。幼稚園は歩いて三分の所にあり、朝のお祈りと給食にだけ参加して、後は歩いて三分の家に戻り過ごしたという始末であった。ほとんど毎日、である。
今と違い美容室での婚礼着付となると、前の日にカツラの日本髪を結い、当日は婚礼の為、一日母は留守をする。婚礼用のカツラを結う母を見て、翌日は留守になることを知っている幼い私は、朝から「行くな!」と大泣きをしてやった記憶がある。どうも二、三時間泣いてやると決めていたらしいことを後になって聞いて以来、恥ずかしいという思いが消えない。そんな風であるから、私も孫娘も遠慮なく本心を思いっきり表に出す。しかも、大声なのだ。かと言って、私も孫娘も決してわがままではない。人に対しては充分以上に気を遣えるし、共感も同情も出来るし、人の立場に心を寄せ、分かり過ぎるくらいに人の気持ちを受け止められ、精一杯の声を掛けられる。感情を内面に抑圧することなく、正しく正確に表出するということが出来るのである。幽閉と言える程心を閉ざさざるを得ない傷を負って、我が本心を今迄誰一人として話せなかったこの荷は、どうしたら下ろせるのだろう?心の傷の深さは、八千メートル級のアルプスのクレバスの比ではないはずだ。エネルギーは枯渇したまま、不安と緊張が常に高まって辛さのあまり現実感さえもなくなったりするのだ。また、辛い大変な記憶が自分の意志とは関係なくフラッシュバックして悪夢に苛まれるはずでもある。よく今日まで命を紡いで頂けた。そのことに、私は泣いてしまうのである。私は、たじろぎ圧倒され、気を失っている場合ではないのだ。本当に助けて貰いたい、私を・・・。だからと言って何も出来ない無力ではいられない。だから私は解を尋ね歩く。教わらないとそんなクライアントの前に立てないからだ。
ある時、イナゴの大群に稲を全滅にされた農家を、知り合いの方に仲介して頂き訪ねた。
「あんたさ、自然を相手にしてるってことはこんなもんだわ。何が起きるか分らんからな、それ覚悟しておかんとなぁ。だけんど今さらイナゴはないわぁ。ワッハッハ~」
今時イナゴのせいで稲の全滅などおそらく日本広しと言えど経験がないだろう。また、一年の収入のほとんどがお米を売ってのものであるはずだ。ほとんどの収入のない中、私の目の前で「イナゴはないわぁ」と大笑いできるこの農夫の覚悟が胸に刺さった。誰からでも良い。私がどんな場面でも立っていられる価値・思考に出会いたい。だから、私は今日も街に出る。目に入るすべてに足を止め、心を寄せ、頂けるすべてのものを吸収したい。
明日生きていられるか、不安が一杯であろうノラ猫と公園で出会う。酷く痩せていて、怯えた表情で人と目を合わせない。ただ、鳥のことが気になるのだろうか、空を見上げ、安気そうに大きなあくびをしてノソノソどこかに消えた。まず、私もあのノラ猫を真似て大きなあくびをしてみようと思うのだ。