(139) 覚悟
「ほとんどの人間は、実のところ自由を欲しがってはいない。なぜなら、自由には責任が伴うからである。ほとんどの人間は責任を負うことを恐れている」フロイト博士の言葉である。
この夏、パリオリンピック・パラリンピックが開催されたばかりであるが、確かフランス国旗の「青・白・赤」の三色はフランス革命時にスローガンとして掲げられた「自由・平等・博愛」を象徴するものと言われている。ここに掲げられた「自由」は、フロイト博士言うところの欲しがっていないと矛盾しているかのように見える。私たちは二言目には「自由」であることを願い口にする。それは「自由」でいることを心から望んでいるからだろう。私たちの今が、そして今までがどんなに「不自由」だったのかの反動でもある。いかに今まで何らかの強制や支配を受け続け、自らの意志や本性のまま生きて来られなかったのかということなのだ。「自由」を叫ぶのは当然のことだと思われる。
また、この夏やり切れない事件?いや犯罪が露わになった。「裏金」問題である。ある派閥の有力者たちの犯罪だ。今のところ裏金問題で起訴され有罪となったのは、知る限り一人しかいない。早々と有罪判決と言うのは”スケープゴート”をつくり幕引きをしたかっただけなのだ。法に触れる行為をするなら、責任を取る”覚悟”をしてやるべきだ。責任を取るべき”覚悟”が足りない。
私たちの現実は絶えず「不自由」を強いられている。家庭に始まり地域・学校・会社・仲間など、自分の思うままに振る舞うことを、意図するわけではないかも知れないが制限している。
私は大学卒業と同時に女子高校で教鞭をとった。学校カウンセラーでもあった。そんなこともあり、問題を抱えた生徒たちに接する機会が多かった。家出・万引き・虞犯行為・自傷行為・摂食障がい・・・その他あらゆることが起きた。当時まだ”カウンセリング”の必要性が今ほど重要視されていなくて、心理的アプローチなど技法も理論も確立してはいなかった。カウンセラーの立場は、理解されないまま孤立無援だった。問題を抱えた生徒たちは、どこかしら拗ねていた。自信がなく自分や他者を否定もしていて、空虚な目をしていた。心から彼女たちが求めたものは、肯定的な支持や激励・プラスのストロークであるにも関わらず、貰えるはずもなかったのだ。淋しい・苦しい・わかってもらえないと、はち切れそうなやり切れない思いを、たとえダメ出しを貰ったとしてもいいと、マイナスのストロークでもいいから欲しいとばかりの”覚悟”をして逸脱行為をして助けて欲しいとサインを出す。
抑圧の連続だったに違いない。どんな場面でも注目されることはなかった。否定されてばかりだった。意志や本性に従って生きられなかった。
そんな沈黙を破って心の底からの声を出すことを決めた。それが症状や逸脱行為という形で・・・。そこには切望しているものは貰えず、マイナスのストロークが返ってくることを”覚悟”していたに違いない。健気なのだ。マイナス反応が返ってくる”覚悟”があるのだ。犯罪を”覚悟”なしでやる政治家たちに比べたら、はるかに上等なのだ。
このように考えると、フロイト博士の「自由」を得るためには自ら責任を負う”覚悟”が必要だという教えと、フランス国旗の象徴である「自由・平等・博愛」とは、決して矛盾などしていないのである。私たちは心の底から「自由」を強く求めている。しかし、それに伴う責任を負う”覚悟”が足りないというだけのことだ。さて、その”覚悟”だが。”覚悟”などと大上段に振りかぶって捉えたりしないことだ。二つの字ともに漢字だし、固さだけが目立って安気ではない。地震にしろ大雨・津波などの天災を予測して、私たちはどう”覚悟”するのか?必要なものを詰めた非常持出袋を日頃から準備して、ハザードマップを用意して、~は良いだろうかと考えておく。これで精いっぱいだし、これ以上は無理だし、それでいいのだ。心配というのは制限がないし、今やれることだけやり、心の準備をすることが”覚悟”するということだ。
他から束縛され、自分の思うままに生きられないという「不自由」は、決して私たちにプラスを与えることはない。それを知っている私たちは、「自由」であることを心のどこかで願いながらも、「自由」を叫び行動することにより生じる結果については、本人が引き受けるべきという社会通念が存在するのだからと、尻込みをしてしまう。確かに思うままに「自由」に生きて、それに伴う責任は自分にあるとなると、ちょっとびびってしまうかも知れない。「自由」とその「責任」はカードの表と裏の関係にあり一対であるから、片方だけ選ぶことは出来ない。しかし、私たちは今までもそれなりに自分のしでかしたことに対して責任をとって来たし、とれないほどの責任が生じたことなどなかった。だから、責任に対して過剰に反応することは必要ない。責任をとらなくていいように考えながら、あらゆる準備をしたのなら、その準備の間に”覚悟”というのは出来るものだ。
心の求めるままに「自由」を求めることが、元々自然なことだ。そのようにひらめいた時、「自由」を求めて欲しい。”覚悟”は必ずそれについてくるものだ。
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