(79) 「共感」するということ
「いいですか、人生で一番難しいことは、”共感”することです。そんな難しいことを、私は一年を掛けて皆さんに語って来ました。一生の課題ですね。今日をもってこれで最後の授業です。ご清聴を感謝します」
老教授最後の言葉だった。
以来半世紀、私の頭から決して離れない”共感”の二文字・・・理解したのだか・・・わかっていないのか・・・考えれば考えるほどわからない。
依頼を受けた講演のほとんどで、私はこの”共感”を力説した。また、あらゆる場面で”共感”こそ大切であることを語って来た。しかし、老教授の受け売りでしかない。
初回面接のクライアントの表情は硬い。この表情の硬さは私の責任でもあるのだ。蓋をされた「心の内」が表現されるかどうかの瀬戸際なのだ。その硬さを取り除く為の「技法」としてのやり方はあるだろう。難しい「技法」ではないはずだ。私はそれを使って良いとは思わない。「歯が浮いて」しまうからだ。私はマジシャンではない。
「あの先輩の言葉の裏に、僕への否定の気持ちがあると思うのです。ひとつひとつの言葉がぞんざいで・・・。お前はダメだと言わんばかりなんです」
「具体的に否定的な言葉ではないのですね」
「はい、それはそうです。それがまた卑怯だと思うんです。はっきりとお前はダメだと言われた方がましです」
思い込みも含めて、今彼は先輩の言葉で傷ついている。これだけが「事実」なのだ。
「先輩は具体的に君を否定した言葉で言う訳ではないし、君の潜在的な”人からどう思われるか”という不安を先輩の言葉に投影して悪く理解しているのではないでしょうか?」
こう投げかけてしまうのが、たぶん相場である。
それでは、彼の心に”共感”出来たとは言えない。彼は心の蓋を永遠に閉じてしまうに違いない。彼の「事実」に心が寄り添っていないからだ。「彼の事実」とは何か、そこを見つめることが重要であるのだ。「相手の目」で見つめることが出来るか、その周波数に合わせられるか、が問われている。後に、クライアントの思い込みであった・・・ということが多々ある。しかし、ここからがスタートである限り、その周波数に合わさずして”共感”に至ることはないのだ。
それは同時に、「相手の耳」で聴くことであり、「相手の心」で感じることでもあるのだ。”共感”に至る為に、「相手の目・耳・心」を感じなければならないと思う。半世紀の愚考の日々の中で学んで来た、一応の結論でしかないのだが・・・。
「先生は随分とご苦労の様子でした。ご無理なさったんですよね?私の訴えが常識を超えたものでしたし、心配性のあまり小さなことでも不安でしたから・・・ごめんなさい」
「いやいや、そう見えましたか?」
「勝手な私の想像ですけど・・・私が先生の立場だったら決して穏やかには聴いていられなかったと思います。私の不安や訴えは普通ではなかったと思うからです」
確かにクセのある私個人の価値観・人生観・生活信条・信念など基準になど出来るものではない。そんな私の「目・耳・心」など、ろくなものではないのだ。一旦これを棚上げして、私は「私なるもの」から自由になり自在な臨機応変なフットワークの効く体制になりたい。クライアントの「目・耳・心」にすぐに周波数を合わせられる状態でありたいのだ。
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