切片

ノオト以前のこと(その3)

あなた達が知っているNOTEチームに辿り着くには、もう少し紙幅が必要です。このままだと(その8)くらいになるので、枝葉の面白いところを捨てて、今回、NOTEチーム設立までを概説したいと思います。

篠山市副市長のころ

「成り行き」とは半分は偶然で半分は必然なことです。私自身、どこまでが必然で、どこからが偶然なのか判然としないのですが、とにかく、平成19年の春、私は兵庫県の人事異動で篠山市に副市長として出向します。3年ぶりにまた丹波に呼ばれたことになります。(それから4年間の偶然と必然が、私たちの現在の活動を産み落とすことになります。)

私の専門領域としては、景観法の導入、土地利用計画制度の創設などに取り組むことになるのですが、市役所にひとりだけの副市長ですから、業務は市政全般ということになります。一番の仕事は財政再建でした。着任直後に財政課に計算してもらったのですが、このままだとその3年後に財政破綻することが分かりました。市長をトップに人員削減、給与削減、補助金廃止など厳しい行財政改革に取り組むことになります。

職員に早期退職を強いること、地域への補助金やサービスをカットすることなど誰もがやりたくない仕事ですが仕方がありません。約600人の職員のうち最初の1年で100人が退職されました。また、職員給与は10%カットで県内最低水準に。結局、財政破綻を免れるためのカンフル剤は人件費カットしかないのです。どうにか財政破綻を免れる道筋は付きましたが、負債は一気には減りませんから10年以上緊縮財政が続きます。

次に、行財政改革の一環で、第三セクターの整理統合・民営化を実行したので、当時、私は副市長のほかに、5つの第三セクターの社長、副社長、専務取締役、取締役、監事をしていました。市の特別職でありながら、整理統合をする第三セクターの役員をするというのは奇妙な立ち位置で、午前中に市役所の政策会議で事業廃止を決定しておいて、午後には自分の会社の社員に解雇を通告するという「負の利益相反」を背負うことになります。

そして、整理統合・民営化の結果、平成21年2月、第三セクター2社が持っていた公益的な事業を継承する民間法人として設立したのが「一般社団法人ノオト」です。市の文化施設スタッフ、図書館司書、学校公務員など職員80名くらいの法人です。

彼らは過去の行財政改革で臨時職員や嘱託職員から第三セクター職員として切り出されて(外部化されて)、給与カットされた可哀想な職員でした(給与水準は市役所職員の半分以下でした)。1年毎の反復雇用という不安定雇用から安定的な終身雇用に変わったことが唯一のメリットのはずでしたが、それが今度は民営化と事業縮小です。

前身となる第三セクターの社長が私でしたから、責任を取って私が代表理事を続けることにしました。解雇する職員のために新しい事業を起こす必要がある、新しい事業で収益を得て職員の処遇改善をしたい、との思いがありました。(それが正しい判断であったかどうかは分かりません、この思いは後に挫折してしまいます。)

また、副市長としては、10数年をじっと耐えているだけでは篠山市の未来は描けない、との思いがありました。何か新しいまちづくりを、と考えていました。けれども、緊縮ムードのなか、予算を付けて新規事業に取り組むことが許される雰囲気ではありません。ちょうど平成21年が篠山城の築城400年の年にあたることから、ここを起点に、新しいまちづくり事業を仕掛けることにしました。

市民による「市民のまちづくりの祭」をコンセプトに、外部への発信は全くせず、内向けの祭として、まちづくり事業を公募したところ、結果的に市内各地で100件を超えるまちづくり事業が企画され、実施されました。地域の歴史文化を学ぶ学習会、伝統的なお祭りの復活、郷土料理の商品化、マルシェの開催、アートイベント、交流イベントの開催などです。

春から秋にかけて半年以上続いた「丹波篠山築城400年祭」のフィナーレに、大阪市立大学(当時)の佐々木雅幸教授を招聘して「創造都市シンポジウム」を開催。ユネスコ創造都市ネットワークの都市認定を目指すことを目標にしました。(その後、平成25年度〜29年度の5年間、ノオトは、文化庁が主導する「創造都市メットワーク日本」の事務局を担いました。平成27年12月、篠山市は、クラフト&フォークアート部門で「ユネスコ創造都市ネットワーク」に加盟が認められました。)

このような背景があって、ノオトでも、築城400年を記念した新しい事業に取り組みました。そのひとつが「古民家空き家を活用したまちづくり事業」でした。私と才本謙二には、町屋研での経験がありました。町屋研での活動がなければ、この事業は構想できなかったと思います。ただし、事業スキームはモデルチェンジすることにしました。町屋研がボランティア活動を組み入れて、改修費のコスト削減と古民家再生の普及啓発を目的としたのに対して、ノオトでは、プロの職人による改修、古民家再生事業の産業化を目指すことにしたのです。事業規模が一気に大きくなりました。その時の「私たちの想い」は、今も変わっていません。

https://team.nipponia.or.jp/about/#mind

そして、平成21年10月には、私たちの最初の作品「集落丸山」が開業します。12戸のうち7個が空き家の集落で、空き家3戸をオーベルジュ(一棟貸し宿3棟+フレンチレストラン)に再生し、集落に残る5世帯19人がNPOを設立してこれを運営する、という集落再生事業です。既に、藤原岳史がノオトに参画していて、集落丸山のWebサイトを作ってくれました(そういえば、制作費を払ったかどうか覚えていません)。

その後も、篠山城下町で、プロダクトデザイナー喜多俊之氏がプロデュースする伝統工芸ショップ「篠山ギャラリーKITA’S」(平成22年3月開業)、世界の雑貨とアンティーク「ハクトヤ」(平成22年4月開業)、日置地区で、里山旬菜料理「ささらい」(平成23年3月)を次々とオープンさせました。

平成23年の春、私は1期4年間の任期を終えて、副市長を退任します。兵庫県職員に形だけ復帰したうえで、公務員を辞めてしまいました。55歳のときです。

あのまま兵庫県に残って、局長や部長といったポストを務めていたら、若い頃に断念した事業や施策を実現できたのではないかというパラレルワールドを惜しむ気持ちが、今でも私のなかにはあります。けれども、その時、健全でパワーのある中間組織がこの国には存在しないという問題に、私は気付いていました。それに、ノオトはもう走り始めていました。

まちづくりには「気が付いた人がやる」という鉄則があります。気が付いたのなら取り組まないといけない。世間には、問題点を論って、俺は識ってるぜと主張するだけの輩はたくさんいて、結局は世の中の役に立っていません。問題点を指摘して行動しないことは問題を固定化することに貢献して、却って社会的にはマイナスになります。

だから、誰も気が付いていない道を見つけたとき、その道に分け入っていくことは私にとって自然な行動でした。たいそうな決意もなければ、ほろ苦い逡巡もない、自然な「成り行き」でした。神戸市の学園都市にキャンパスがある流通科学大学が特任教授として拾ってくれたので、大学とノオトという二足の草鞋を履いていましたが、それも3年で辞めて、地域再生の現場に専念することにしました。そして、それはイバラの道でした。

さて、ここまでだと、まだ、あなた達の知らないノオトかと思います。平成27年6月、ノオトから、篠山市関連業務部門(指定管理業務など)が分社独立し、地域再生事業部門だけが残りました。社員11名、職員80名の一般社団法人から、社員7名、職員ゼロの一般社団法人に。事務所は、今の立町事務所の横の小部屋に移動。そこから「篠山城下町ホテルNIPPONIA」の開業を経て、平成28年5月、藤原岳史が代表となって株式会社NOTEを設立。やっと辿り着きました。ここまで来て、あなた方が知っているNOTEチームです。

この間、小さくなった組織で、イバラの道で、藤原岳史、伊藤清花、星野新治が大活躍します。私はヨボヨボに。その辺りの「成り行き」は、また別の機会に物語ることにしましょう。

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