わたしのありのまま

わたしの興味の赴くままに
トエック三昧だった昨年から、9月のフリースクールセミナーで、自分へのご褒美は最後と思っていたのに、やっぱり達郎さんのライブに行きたくなり、来てしまった。



新潟へは、長野続きで足を伸ばしたくらいで、妙高でスノーシューやスキーを履いて山歩きした若かりし頃を思い出しながら

その山を越えてはじめましての上越市。

霧に包まれるような町の中で、もみじの赤色がひときわ輝いていました。

森のようちえんと言っても、土地土地でかたちや課題も様々で、

猛暑日続きでの野外活動に、戸惑いと疲労が半端なかった夏がついこの間のように感じられているのに、

新潟ではやっぱり雪の影響が大きくて、もう森じまいがされたんだって。

雪に変わる前の今時期には、毎日雨が降り続いて、人々の心と身体に大きな影響があるそう。

あたたかく感じられる工夫が人の心をあたたかくするんだなぁと、見ず知らずの私にまでも心遣いをしてくださって、そのことを実感した。

前日入りして懇親会に入れていただいて、寝床と朝食まで仕度して下さったおかげさまで、知らない土地に安心して飛び込むことができました。

ありがたかったです。

さて、お楽しみのライブ

いつも達郎さんの仕事や在り方に教育の根本になるような秘密がある気がしてならないからですが、達郎さんは謙虚にその腕っ節は語られなくて。

達郎さんはそれでいいのかぁ…そこもっと伝えて欲しいよとも思うんだけど、なんだか腑に落ちないのは、

現場にいる中で、皆の居心地が私の心地という、カッコつけでもないよ、その私のセンサーが、何か決めなくちゃ、変えなくちゃいけない窮地に利かなくなって

「わたし」とか、その「わたし」って何を求めてたんだっけ?とわからなくなってしまうことがあって

そのままでいい、存在を認めるとか言いながら、
存在を認めて欲しい自分がいるのか?とかそこに納得がいっていないのかもしれない疑いと

承認欲求が否定的な欲求のように言われるけれど、誰にも承認されなければ、わたしが自分の存在を認められないのは当然で

そんなことから私自身が自由になりたいんだろうなと、ぼんやりと思っている。

ライブでは、場づくりを自然農の土づくりに喩えて伝えてもらって大満足。

ライブだから(私が勝手にそう思っている)、これはアート作品が、受け取り手によって価値や意味が変えていくように、

受け取った者がその感覚のまま、現場にかえり、その息吹がまた誰かに影響を与える、そんなことで良いのかなと今思っている。

多分アーティストの達郎さんもそんなふうに軽やかでいるのかなと思うと、達郎さんのライブを愛知でできる日を心待ちにしている「わたし」と出会うことができた。

パネリストの先生方、主催園の方方は皆さん素晴らしくあたたかくて、

10年20年…40年の経験を積んでいる方が向き合う姿には、苦ではなくて、工があるのだなあと、早くそうなりたいな〜と楽しみになった「わたし」もいる。

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