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青春漫画抄(昭和)㉔
*《 国領にて 》
私は小田急線の調布の手前、国領のアパートを借りた。
6畳の和室と、6畳のダイニングのある部屋で、家賃が2万円。
それまで3畳の部屋で、家賃が5000円だった事を思うと
大変な出世である。新たな気持ちで新居に飛んだ。
そのアパートでは、昭和ノートの様々な仕事を受けたが、
少女漫画界では大御所の「牧美也子」先生の着せ替えの仕事も受けた。
着色もある丁寧な仕事をしたつもりだった。
そんな中、さらに本人から私が指定されて、スケッチブックの依頼も受けた。それなりに新鮮で楽しい仕事だった。
*《 その前提で約10年後にワープ・・・ 》
すでにプロデビューしていた私の仕事もやや落ち着いていた時期に、
興味を持った日本画に接してみたいと、池袋西武デパートの
スポーツセンターにある、数々あるカルチャー教室の中から一つを選び
通い始めた。
大学教授である先生も、芸大の学生画家でもある助手の先生もいて、
楽しい授業であった。
学ぶ生徒の年齢も様々であったが、次第に仲良くなった数人と先生達で
授業の後の常連のように、飲みに繰り出すのも楽しい定番となっていた。
最終の電車もなく・・・帰宅の方角が私と一緒になったタクシーに
同乗していた女性もいた。
ある日の授業の時、モデルをデッサンするその女性の描く絵を見て、
私は確信して、本人に問い詰めた。
「 牧美也子さんですよね?」
伏せていた正体を見破られて・・・
その夜の彼女は飲みの席で自棄酒(やけざけ)していた。(笑)
もちろん彼女は、私がかつてスケッチブックに彼女の絵を描いていた
当人であることなど知らなかった。
人の縁というのは、不可思議なものである。
(ここでワープ、終了)
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(↑ もはやどなたが描かれたのかわかりませんが( 私の可能性・大 )
こんな感じのノートやスケッチブックの裏表紙に
「きせかえ」や「ゲーム」とかを描いていました。)
*《 続・国領にて 》
昭和ノートの仕事がいつまでもある訳がなく、
ほぼ無職のままの長い日々が続いていた。
私は漫画家としてデビューすべく様々な話を創作し、
絵コンテのノートを描き殴りの日々だったが・・・
その後にも続く私の人生の中で、
もっとも飢えつつの楽しい時代でもあった。
(苦労だなんてまるで思っていなかった)
*《 お金がなくなった最終形態の食生活 》
袋詰めインスタント・ラーメン・・・例えば、
「サッポロ一番・味噌ラーメン」の麺を三等分。
その一つを一日の食料とする(同封のスープは使わずに醤油で味付け)。
同封されたスープは一日・二回に分けていただく。
(私はその状況で、飢えつつ、しっかり楽しく生きていた。だが、、
桑田先生から仕事の連絡があった場合に向けて、移動する為の僅かな通信、交通費を残すのみの、危険なレベルの極貧状況ではあった)
・・・その年も明けて正月となり、さすがに、ひもじい私は
微かな希望を持って、桑田先生の自宅に電話した。
優しい奥さんが新年だからと
「遊びにいらっしゃい?」
とのお言葉をいただける奇跡に夢を託していた。
行けば、
料理上手な奥さんの正月料理とまでは望まないまでも、
お雑煮とか食べられる のでは? の、夢に燃えた!
だが、応えは優しく・・・
「今年もよろしくお願いしますね ♪」で、終了。
お雑煮の夢を断たれた私から、
残された力が抜けてゆくようだった。(笑)
そんな時に天使が舞い降りた!!!
「 デ・ン・ワ・モ・ト・ム 」
との、井上さんからの電報が届いたのだった!
即、電話すると、「新しい仕事の話がある!」との事だった。
私はその時、命を救われたとばかりに感謝したのである。
その時から時間を経ずして
お腹も心も幸せに満たされたのは言うまでもない。
(つづく)