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青春漫画抄(昭和)③



*《中学時代》


北海道置戸町。

道東に位置し、四方を山で囲まれ、中央を常呂川が流れる。
当時で人口2万弱。かつては林業が盛んだった小規模の町である。
『エゾナキウサギ』が発見された地でもある 私の生誕地・・・

小学校をいくつか転校した後
私は実家を離れ置戸にある父方の祖母の家に住むこととなり
置戸中学校に入学した。


*場面は美術の最初の授業から始まる・・・


美術の教師は教壇に腰掛け、自らがクロッキーのモデルとなっていた。
教師が、描き終えた生徒達の作品を一点ずつ評価してゆく・・・
私の絵の番になり、それまでとは口調が変わって興奮気味に言った。

「この人は画家になれる!」


その事があってから
授業以外でも私は美術教師に話しかけられるようになった。
教師はかって、芸大を目指していた時期があったらしく
芸大の先生に褒められた!」と、自慢気にその時の石膏デッサン画も
見せてくれた。確かに素晴らしい出来だったと思う。

「必ず芸大に行け! 油絵なら俺が教えてやる! 間違っても
漫画だけは描くな!!」

私は、美術教師の叶わなかった夢をいつかは実現させるべく存在と
なっていた。もちろん褒められることが嬉しくて絵画の世界で遊んでいが・・・その頃から別の世界にも興味を持つようになっていた。

雑誌の挿絵、そして・・『漫画』である。



*《漫画研究会》


中学三年の頃だったと思うが、とある雑誌で「漫画研究会」の名前を目にし、私は惹かれるように入会した。

遠く離れた地で同学年の「村岡栄一」が会長を勤め、彼が全国の会員の描いた作品をまとめて綴じて「肉筆回覧誌」(会誌のタイトルは『墨汁一滴』)とし、全国の会員が閲覧、コメントの書き込みの後、さらに次の会員に郵送するという体裁であった。今の時代の「漫研」の、もっとも初期の頃の形態だったと思う。

会員の中にはすでにプロデビューしていた「青池保子」もいた。
ちなみに私から次の郵送先の会員は、後に天才といわれた「岡田史子」
(当時は高田文子)である。彼女の作品で天才の片鱗を感じたのは、
中学3年の少女が描くとは思えぬ精神病棟を題材にしたものだった。

会長の「村岡栄一」は後に「永島慎二」のアシスタントとなりプロデビューしたが、漫画家を志す一部のフアン層からはカリスマ的存在となった。

ともあれ、ワクワクした世界であり、
様々な人材の坩堝(るつぼ)であつたと思う。


美術教師にとって不肖の生徒だった私は、置戸中学を卒業し
祖母の家を離れ、実家のあった浦幌の高校に入学した。

(つづく)






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