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やさしいひと



社会人向けのデザイン学校へ行き始めた頃、恩師からコミュニケーション力や人柄というのはカメラの世界では「スキル」と呼ばれるものだと教わった。ジュンイチさんはスキルがある。

スキル=訓練されたもの。技術。

その「辺り」に妙な自信があった僕は

…ギフトじゃないんだな。

そんな言葉が頭をよぎった。


ずっと求めてたやさしさは違った。

僕の持つ優しさは「スキル」なんだ。出し入れ可能で、大小も変えれて、形も種類も変えることができるようにいつしかなっていた。

美容師のハサミのようによく切れ、何十年も使い続けて手に馴染んだ、道具のよう。シザーハンズのエドワードのように手から離れないわけじゃない。剥き出しの優しさはいくらか前に小さく自分のホルダーにしまえるようになった。

こんな風に書くと本当は怖い人かもと思う人がいるかもしれない。それならそれで構わないです。気にせず心の距離をとってくださいね。

ただ、僕はこれまでの人生で一度として自分に都合がよくなるように、このスキルを使ったことはありません。それは断言できます。
心を守る時には使います。それだけです。

やさしいということは悪い事ばかりじゃなかった。けど、良いことばかりではない。損な役回りや勘違いする、されるだってよくあったし、やりたくないことだって誰かがやらなきゃいけないからやったこともある(誰かにとってのやさしさはときに反対の効果を出してしまうことも理解しています)騙されたこともあったし、結果的に騙してしまったこともあります。

そのかわり思いがけず助けてもらえることや、出会いに恵まれてきた。普通に過ごしているとめぐり会えなかった。

やさしい自分が可哀想だとか、損だとは思わない。むしろやさしいのか?(余計なこと言ってないか?)と本気で思うときがある。今でも。

過去があって。大切な人といられる。自分の心も相手の心も大事にすることができる。きっとこれも磨き続けたスキルのおかげ。

「ギフト」は贈り物ではなく『天性のもの、特別なもの、誰も待っていないようなもの』だと考えていました。

けど、それは皆が持ってるものだと最近は思っています。ギフトは時に見えたり、見えなかったりして。知ることで見えてくることもある。日常に溢れている。そして自分自身にも言える

そのことに固執している人もいるんじゃないかな。自分のやさしさは本当はやさしいとは違うんじゃないかって。そんな人にこう言いたい。

『大丈夫。あなたはちゃんとあなたのもつギフトから必要な分だけスキルとして形を変えて誰かに与えてる。ただ、無限にあるわけじゃないしそこには個人差もある、ような気がする。』

「ギフト」を持ってるひとたちと自分は何も違わない。僕らは元々違う。だから渡し方も受け取り方も違うんだ。

渡せたり受け取れなかったりしてる、だけ。

具体的でないからこの話は分かる人とわかりにくい人がいると思います。僕の文だとこの辺りが精一杯です。

やさしさなんて、一括りに言えないことはわかってます。

こういう考えを持った人もいる、という話がしたかったんです。


トップ画の絵を描く女の子に向けられた眼差しが素敵だなと思って選びました。

僕は絵が描けないんだけど、だから描ける人が羨ましい。そのギフトは無かったんだなぁ。。(→スキルも 笑)

ただ絵を描けなくても選ぶことはできるよなぁ、そんな風にいつもイラストを選んでます。

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さとう じゅんいち
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