行き詰った悦び手放す時は今

去年の今頃、私は藤井風さんのファーストアルバムを知った。
発売日より少し遅れて、だったと思う。

何なんw 
もうええわ
優しさ はMVが流れていたのを
どこかで見ていたかもしれない。
(私の家はスペースシャワーTVをつけ続けているので、
そりゃあ流れていただろうと推測する)

もはや覚えていないのだ。
それは、コロナ禍で、
何かに囚われて生きていたそれまでの生活が
止まってしまったから だったと思うし、
藤井風の世界を本格的に知り、
新しい生活が始まったから だとも思う。

コロナ以前を思い出せない。
と同時に、風以前も思い出せなくなっていた。

何かに引き摺られて生きてきた人間には、
彼の世界は心地良い。
背中を押されているというか、
常にそばにいる気配がする。

代わりにさっさと言ってくれる、
なんて言うんだろう、心優しい子どもと言うか。
困っている人間を見ていて、助けてくれる気がする。

なぜそんなふうに感じるのだろう。
音楽というとても美しい波動が押し寄せることが分かるから満たされる。
というのはもちろんあると思うのだが、
歌詞もまた独特の寄り添い方だ。

とても強いわけでないのだが、
じめじめしているわけでもない。

一聴した時から、「特にない」が好きだが、
「もうええわ」のぶっきらぼうなもうええわ、
「さよならべいべ」の新しい扉に向かうための明るいさよなら、
死ぬことも帰るだけだから(「帰ろう」)と、
自分がいなくなった後を確認して手を振る。

お別れがからっとしている。
あるいは、あっけらかんとしていると言う方がその佇まいにはふさわしいような気もする。

全てを忘れるのは彼の生き方であり、優しさであり、苦しみからの解放であるのだろう。
そして愛情表現である。

解脱のすすめのようなものかと思ったりもしたが、それも違うように思う。

彼が愛を真ん中に置いたアーティストであることを考えれば、愛ゆえの忘却であり、
苦悩(彼は「もがく」と言っている)がない世界へ行ってしまいたいと思ったり
(「へでもねーよ」では、そのような自分とも戦っている)、
現実世界から逃避したりすることを目指しているのではなさそうだ。

私も、この1年間、藤井風の音楽世界を知り、
自分の過去を手放す方法を考えた。

永遠に続くかもしれないと思えた緊急事態宣言は解除され、
再発令されても、昨年のようなキツい縛りはなくなり、
ということで、再び残業だらけの積載量を優に超えた毎日が戻ってきた。
数年前まではこれにもう一個、夜中に起こされる生活が乗っていたのだから、
我ながら自分は超人だったのではないかと思わざるを得ない。

ただ私は、どうやら変わってしまったようだ。
戻ってきた生活をおかしな生活だと嫌がる自分がいる。

1st ALBUM発売から1年ということで、
初回盤についていたカバーアルバムが復刻されたりしてお祝いムードなので、
私もこの1年を振り返って、文章を書いてみることにした。

行き詰った悦び手放す時は今

去年、ハッとさせられた歌詞の一節だ。
そんな方もいるのではないかと思う。


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