言葉が作り上げる現実

4、5年考えてることを書いてみようかと思う

(1)
確かに私は15年ほど前に、この人と同じ時間を過ごしたなと思う
ある出来事に対する距離感は違ったけれど、
同じ出来事を見たなと思う

その人は当事者として関わっていて
私は少し距離があった

ひとりの人が心を病んだ
いまよりそのような病への理解が低かった
心を病んだ人は、気遣いもされず、正しい理解もされず、孤独に追い込まれた
確かに、結局心を病んだ人の提案する企画には展望の甘いところがあった
細かな部分への配慮も足りなかった
ただ、それを補っていこうとする周囲のヘルプもなかった
むしろ、ひとつひとつ、重箱の隅を突くような攻撃的な言葉が飛び交った
その急先鋒のような人がいた
先に書いた「当事者」の人である

心を病んだ人は休職をした
復職しても、続けて毎朝出勤するのが難しかった
そこで、欠勤・出勤を繰り返し、再び休職、
復職、休職、復職…
そのような働き方をしていると、点と点を繋ぐような具合だし、その人の声が職場で聞かれることもない

どうなるか。

職場に居続けた人(先に書いた「当事者」)の捉えた「出来事」が正史となっていくのである
当然、居続けた人の都合の良いように「出来事」が描写される
「出来事」を直接見たり聞いたりしていない人達は、その正史を信じる
点と点の人(休職、復職を繰り返している人)に対する理解もそのフィルターが通る

その人達は、
点と点の人がいかに厳しい言葉に傷つき、
心を蝕まれたか、想像してみることもしない

いや、「出来事」を直接見たり聞いたりしていなくても、いい大人なのだから、そんなマインドコントロールのようなことはないはずだと、この文章を読んでくださっている方々はお思いになるかもしれない
当時のことは知らないのだから、色眼鏡で見ることはないとお思いかもしれない

だけど、「正史」は、残らない声を拾わない
残る声が現実を作っていく

ただ、私は15年前の出来事を覚えており、
多くの人がひとりの人の心を痛めつけたことを知っている
「正史」を語る人が最もしつこかったのも知っている
「正史」に違和感がある


(2)
人当たりがよく、柔らかな雰囲気をまとっている人がいる
それはその人の持って生まれたもの、育ってきた環境でできあがったものだと想像する
私が出会った頃にはすでにそのような人だった

その人は楽しいことが好きで、しばしば職場に遊びの延長のようなトピックを持ち込み、シリアスな場面にはそぐわない行動をとった

仕事には、息抜きの場面が必要である
ただ、ずっとそれではうまくいかないことがある

特に、いわゆる「まじめ」に仕事をしたい人には受け入れられない行動である
(その人の根が「まじめ」かどうかはさておき、この仕事はかくあるべき、と、考える人のこと)

いろんな職場があると思うが、「まじめ」にタスクをこなす人はどの職場でも一定の評価を得られるのではないかと思う

ひとりの「まじめ」な人がいた
その人は孤独な人で、仲間を欲しがった
徒党を組むのが好きな人だった
本質的にひとりであることに不安を感じる人だった
その人が職場に慣れ始めた頃、仲間探しを始めた

仲間を作る方法として、手っ取り早いのは、敵を作ることである
誰かを仮想敵としてその人の粗探しをする
マイナスの要素を理由に徹底的に粗を「宣伝」していく
対その人の「仲間」ができあがる

いや、我々もいい大人。自分の目というものがあるでしょうよ、と、これまたお思いになるかもしれない
マイナスの要素って何よ、と

しかし、社会には、マイナスの要素は無数に転がっているのである

ふわりとした雰囲気も、見方を変えれば脇が甘い
フランクな性格も、軽い
これまでの働き方も、時代にそぐわない
日本語が母語でない人も、仕事を任せるのが不安だ

特に、その人が、何か失敗をしたりするたびに言い続けられると。

その見方が「正しい」「正鵠を得ている」と思うようになっていく


(おしまいに)
不思議だ
実に不思議だなと思っているのである
人の心が言葉で作り上げられていく過程が

実際に見たり聞いたりしていないものでも、
自分が見たり聞いたりしているものでも、
関係ない

認識は誰かによって作り上げられる

私は、私の認識は、私自身のものだろうか
私は、私の良いと思ったものに自分から触れていくことができているだろうか
美しさを発見できているだろうか

そうでありたい

ひとりでも立っていたい
私の声を私の言葉で残したいと願っている

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