まのいいりょうしのできるまで #1.1

「まのいいりょうしのできるまで #1 」のスピンオフ…

僕は生来よく考える質で、いつだって悩める少年であったのだが、悩みに悩んで悩みすぎた挙げ句、大学生になる頃には「なるようになるし、ならないようにはならないので、結局なんとかなるだろう」という前向きとも諦念とも取れる境地に達していた。

だから、進路に関しても具体策をとることもなく、流れに身を任せていたのだが、そんなある日、恩師から「お前は粗布に荒縄で学校に来い」と言われたのを真に受けて、大学院に進んで哲学の道を歩むことにした。だから、就活もロクにしなかったが、かといって哲学の勉強を一生懸命していたわけでもなかった。

そんな折に、よくつるんでいた友人のひとりが起業すると言い出して、資本金も引っ張ってくるから一緒にやらないか、と声をかけてくれた。ソフトウェアの開発会社だという。行く末はゲームを作ろうと盛り上がった。僕たちはゲームが大好きで、ゲーム仲間だった。ふたりとも文系だったが、むしろ面白いだろう!とさらに盛り上がった。そんなわけで、他にも仲間を誘って、一緒に会社をすることにした。大学はそのままやめた。

会社にはそのまま十年ほど在籍した。十年一昔、清水義範風にいえば「いろいろあった」。

立ち上げ当初は五人で始めた会社も、僕が辞める頃には人数が倍以上になっていた。スタッフは国際色豊かで、優秀な人材も多く、その意味では経営は順調であって、傍から見れば辞めることなどなかったのだろうが、それでも辞めたのは、もっと音楽をやりたくなってしまったからだった。そして、もうひとつ大きな理由があって、それは、お金を稼ぐことに疲れてしまったからだった。

やってみて分かったことなのだが、会社というものは、いったん始めるとやめられないとまらない、かっぱえびせんのようなものだった。会社の運営に必要なものは愛でもなければ勇気でもなく、ただお金であって、そしてお金は驚くほどすぐになくなるから、稼ぎ続けなければならない。

そのためには、会社の規模を拡大していくことが、必要不可欠であった。今にして思えば、そう思い込んでいただけだったのだが、しかし資本主義の真っ只中にいた僕には、外からその仕組みを俯瞰することができなかったのだと思う。

ともあれ、僕自身は、お金そのものへの疑問もあったし、資本主義社会への違和感もあった。だから企みとして、経営陣とスタッフの給与を完全に同一にしたり、面白い人に会うと会社に誘ったりしていた(会社には一時期ドイツ人、フランス人、フィリピン人がいて国際色豊かだった)のだが、そうすることで、会社を運営していくための費用も膨れ上がっていった。

起業当初、熱く語ったゲームへの夢を実現する前に、会社を維持するためのお金を稼ぐため、目の前の業務をこなさなければならない日々が何年も続いた。やりたいことがやれない状況へのジレンマもあったのかもしれない。わがままを言って、音楽レーベルなどを立ち上げたりしたが、大きな額のプロジェクトを抱える度に、苦しい思いも抱えていた。いつしか眠れなくなり、睡眠薬を常備するようになっていた。

結局、辞めたいと言ってから、実際に辞めるまでは三年くらいかかった。自分たちで始めた会社であったし、すぐ辞めるわけにはいかなかった。辞めたときも、立つ鳥跡を濁さずとはいかなかったと思う。後悔もある。僕はそうやって、旅に出た。


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