Doors 第7章 〜 音楽
中学生時代は楽器演奏にハマった.それまでは扉の外から見るだけの世界だった.それが,演奏するということは,実際にその世界を自分自身で自由に歩くということに他ならない.
扉を開ければ見たことない美しい景色と常識.新鮮そのものだった.近づくと消えてなくなる木,かと思えば自分の背後に突然現れたり.時には腹立たしくも思うことはあるが,その鬼ごっこは本当に楽しくて気がつくと夢中になっていった.全ての存在が自由に暮らしているその世界にいつまでもいたい,自分も同じような不思議な存在となり彼らと心から分かち合いたい,そう思うようになり,どんどん扉の奥へと進んでいった.この世では誰も触れてくれない,誰も抱きしめてくれないけれど,音楽だけは僕を優しく包み込んでくれた.
音楽との出会いは歩けるようになってすぐだった.子供用の玩具で,紐を引っ張ればぜんまいが巻かれて縮むまでの間『赤とんぼ』のメロディが流れる仕組みになっていた.僕はその玩具が大好きで,一人紐を引いては泣いていたのを超記憶ではっきりと覚えている.言葉もろくに知らない自分にとって,メロディというのは外の世界を知るまさに"言葉"そのものだった.
また,言葉を覚えて渦や超記憶に悩まされるようになってからはインストの曲をよく聞くようになった.頭の中で情報が拡大される自分にとって,そのくらいの少ない情報量の方が心地よかったのだろう.
音楽にハマってからは自作でタイコやシンバルを作って無我夢中で叩いた.自作と言っても決して誇れるそれではないので詳細には触れない.そのドラムを叩く日々に何が楽しいのか分からないけれど,僕は毎日叩いていた.そんなことを考えたことすらなかったのかもしれない.とにかく,気がついた時には目の前にドラムがあった.音楽の扉は四六時中開きっぱなしだった.自由な世界で自由に走り回っていた.
そんな時,革命的な一言を耳にする.それは社会科の先生が放った「自由とは本当は自由ではない」という言葉だった.あまりに強烈だったので超記憶としても残っているこの言葉,当時の自分には全く理解ができなかった.
自由は自由であり,何をやってもいい世界じゃないのか!?そうだ,自由にやることが自由だ!自由にやる?自由とは何だ?自由も一つの枠組みと捉えると,自由とはそこの枠組みの中にいることであり,それは枠組みに縛られた不自由な世界であるのか!?だとすればそれは自由という本質を欠く.自由とは何だ!?そんな風に僕の思考は大きな黒い渦を龍のように教室中に張り巡らせ,その龍に僕自身飲み込まれてしまった.
もう一つ革命的な言葉が超記憶として保存してある.国語科の「言葉は生きている」という一言だ.この言葉も最初は奇怪なものであったが,その説明を聞くと世界が変わった.
新しく流行る若者言葉や,逆に使われなくなる死語.或いは使われていくうちに意味が変わっていく言葉も.それらは人間でいう生や死,成長と結びつけることができる.つまり,考えようによっては言葉は生きていると言える,というお話だった.
全くその通りだと思った.そして,それは音にも当てはまると.音も絶え間なく変わる.同じアーティストが演奏した音だって,CDのそれとライブのそれとでは全く異なっている.では,その二つの音は別物で無関係と言えるかと問えば,そうではないのは自明.二つとも同じタイトルの曲で,そのタイトルの中で生き成長していることに他ならない.ということはつまり,音も人間も言葉も学問までも本質的には全て成長を伴う集合と言うことも不可能ではない.即ちこれは音楽の世界での暮らしの可能性を広げる写像であるということ.僕にとってこれほど喜ばしいことはなかった.
そんな音楽中心の中学時代,高校時代だった.だが,高校3年生の時にバンドに関するトラブルがあった.東京進出を考えているとあるバンドから引き抜きの話があった.結果的に僕は断ったが,それが原因で活動を休止し,そのままバンドは解散となった.それなりの進学校に通っていたので仕方なく受験勉強に専念することに.