Doors 第18章 〜 フォーカルジストニア奮闘記2
2020年,世間はコロナ禍に見舞われた.多くの人がそうであるように僕の生活も大きく変わってしまった.仕事も含めて音楽関係の活動は全てなくなった.いや,自らなくした.自分自身が不安だったというのもあるが,この状況でリスクを負ってお店に足を運んでもらってまでステージに立つ価値や資格が自分にあるとは思えなかった.どんな顔をして演奏したらいいのか分からない.だから全ての活動を停止させた.
心の中が空っぽになった.けれども,それは同時に動きやすくなったとも言える.悩んでいてもコロナはすぐには収まらない.自分にできることを一つずつやっていくしかない.今だからこそできること,それはフォーカルジストニアとの真っ向勝負である.この際,完全に崩壊してもいいからドラムと向き合って,自分と向き合って,一から自分の演奏を再構築しようと考えた.定期的なライブ活動があると,とてもじゃないけどできない.
そのきっかけは藤浪投手のインタビューだった.『少年時代のように純粋に野球を楽もうと思った』この言葉が僕の頭を貫いた.これだと思った.すぐに自分自身の分析が始まった.
第1章からここまで読んでくれた人なら察していると思うが,僕は想像以上の感覚人間だ.論理思考力が求められる勉強でさえ感覚ベースでやっていた."頭"を使っているようで実は使っていない,いわゆる左脳で論理的に考えることよりも先に右脳でイメージを捉えてしまうのだろう.極端な話,左脳を介さずにそのまま右脳だけで動くと言えるような状況もあるのかもしれない.よくこれで理系の大学に進学したなと自分でも感心してしまうほどだ.
分析の結果,右脳に眠る潜在的な記憶や意識,それらをフルに使っていると感じた.リズム感なんかはその最たるものと言えよう.文字通り感覚で,そこに論理的な要素は一切なかった.「たったっ」から「たかたかたか」に変わる,ただそれだけの認識だった.(さすがにマズイので現在は練習中!笑)
身体の使い方も当然その影響を受ける.自分の中では感覚が全てなので,四の五の言われてもそれを吸収する術がない.とにかくやってみて覚えるのが早い.というか,それしかないのだ.
こういう人種が何かの拍子に感覚を失ってしまうと,たちまち致命的な状態に陥ってしまう.前述の通り,感覚に対して論理的なアプローチをしていないので,一旦見失うと自分が今いる場所の目印がなく,また,どこに向かえばいいかも分からずにそのまま迷子になってしまう.
更に,論理的に考えて復帰するというリカバリー機能も無効なのでお手上げになる.普段やらない,頭で考えて試行錯誤していじくり回せばいじくり回すほど,その感覚の痕跡すらも消えていくのだ.頑張れば頑張るほど遠くなる,これを苦痛に感じない人は余程のMであるだろう.
ではどうしたらいいのか.この答えが藤浪投手の言葉に隠されていた.それは,感覚をフルに使って戻るということ.腐っても感覚人間なのは変わりない.普段から論理的思考でトレーニングしていたならともかく,急に論理的に物事を進めようとしたって無理がある.だったら,今こそ感覚に頼るべきなのである.
そこで大事なポイントは一つだけ.『楽しむ』たったこれだけなのだ.初心に戻って楽しんで叩いていた頃を思い出す.イメージトレーニングでもいい.その当時の場所を想像して,そこで楽しんでいる自分を想像する.そうすると,ごく稀に感覚が一種だけ戻ってくるのだ.きらりと光ったその場所こそが帰るべき場所.
その場所を探す旅からフォーカルジストニアとの戦いは始まる.だから,一瞬だけ見えたその場所の手がかりを忘れないように,どこかに記録しておく必要がある.思ったことや感じたこと等,とにかく何でも記す.それを何度と重ねていると,やがて共通部分が浮き彫りになり,道は収束して帰る場所が分かるのである.しかし,これは戦いにおける苦しみの序章に過ぎない.本当の苦しみは,この扉の先で待っているのだ.