寄稿者はいかにテーマを解釈せるか——kaze no tanbun 製作記4

西崎憲 with 奧定泰之・竹田純

 この文は書きおろしの短文アンソロジー『 kaze no tanbun 特別ではない一日』の製作記です。1、2、3はこちらです。
製作記1
製作記2
製作記3
製作記5
製作記6

刊行記念イベント
青山ブックセンター本店 10月26日 (土) 開場 17:30
池袋ジュンク堂 11月2日(土) 開場 18:30


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 本とはいったいなんだろう、そして文とはいったいなんだろう? 『kaze no tanbun 特別ではない一日』を作りながら、自分はなんとなくそんなことをずっと考えていたようでもある。

 わたしは人間が考えたもののなかでは、本が一番すきである。本を書く人間も好きだし、それを出版する会社も好きだ。多くの人はその考えを共有しているだろう。しかしわたしは時折、奇妙な思いにとらわれる。本と人間は相補的だったり、対偶的な関係にあったりするのだろうか。人間の対偶は神だろうか? では本の対偶はなんだろう? 本の反対語はなんだろう?

 人間と本との関係は一方的なものである。ある種の人間はつねに本を携え、つねにその内容に目を走らせる。しかし本のほうはどうだろう。本はいったい人間についてどう考えているのか。人間がいないとき本はいったいどういうことを考えているのだろう。書店の本たちは深夜になにを話しあっているのだろうか。
 もちろん本には意思はない。これは戯言というものである。

 むろん、本とはなにか、本には意味があるか、といった疑問には答えはない。ある本のなかでひとりの登場人物がもうひとりの登場人物に語ったということを思いだす。

 ひとりが訊ねる。
「人はなんのために生きるのでしょうね」
 もうひとりは空を指さして応える。
「ごらんなさい、雨が降っている、雨が降るのに理由がありますか」

 しかしわたしが上に書いたようなことを考えたのは、寄稿者たちのことに思いをはせていたせいでもある。寄稿者たちはいったい今回の依頼、そして書くべき「文」についてどのように考えたのか。

 kaze no tanbun のシリーズの第一作のタイトルは『特別ではない一日』というものである。
 このタイトルは深い意味を求めて考えたものではない。そんなことをするとたいていろくなことにならないのだ。タイトルはだいたい感覚をもとにして案出する。心地いいか、心地よくないか、連想は広いか、広くないか、記憶しやすいか、しにくいか。
 今回もそのような、いわば意識を放牧するようなやりかたで考えた。そしていつもよりさらに意味が生じないように考えた。そして自分はそれを成し遂げたと思った。

 しかし、作業もだいぶ進み、依頼が終わって、締切が迫ったころ、わたしは自分の間違いに気がついた。このタイトルには意味がないどころか、まったく正反対だった。そしてまるでトラップのようなものだった。

 作家の三分の一ほどはテーマを与えられたとしても気にしない。そういうタイプの作家は、世界中のものはつながっているので、たとえば寿司というテーマを与えられても、平気でコーンウォールの降水量について書いたりする。もちろんそれはそれでいいのだ。どちらの地球上の出来事なのだから。

 しかしべつの三分の一ほどはそうではない。その三分の一は与えられたテーマを真剣に考え、テーマを活かし、自分の文章を活かすやり方について思いを巡らす。
 そしてこのタイトルの背理あるいは逆説に気づくかもしれない。つまりもしこのタイトルに添って書くと、タイトルに反してしまうことになるということに。特別な一日について書いたとすると、書いたことによって、それは特別な一日になってしまうのだ。

 いったい寄稿者たちはどうするのか。テーマにはまったく意を払わずに書くのか(そうしてもいいテーマである。特別であるないというのはつまるところ主観の問題なのだ)、逆説的であることを意識するのか、意識した場合、どういうものを書くのか。

 結果がどのようなものになったか、それは読者は自分の目ですぐに確かめられるだろう。以下は収録作品の内容にかんするメモである。


 山尾悠子「短文性について1」「短文性について2」
  山尾悠子さんは、このテーマはわたしには向かない気がします、と言いながらも引き受けてくださった。ひとつの文として送付いただいたのだが、お願いしてべつの場所に収めることになった。まるで鉱物のような文、そして山尾悠子の旅行記!

 岸本佐知子「年金生活」
 言うまでもなく現代日本を代表する翻訳者のひとりである。そしてこの「年金生活」は創作としてはこれまで最高のものだろう。ここに現れる「年金」の不思議さ、茫洋さ、全体の感触。文章家としての柄の大きさを感じさせる作品である。
 
 柴崎友香「日壇公園」
  共時性のようなものがあったのかもしれない。柴崎友香さんと谷崎由依さんは中国で行われた文筆家のイベントのことを題材にされた。参加された会期は違うが、舞台が似ているので、余計にふたりの書き手の個性の違いが目立ったようでもある。どちらも旅行記に近い設定で「短文」というものの不羈が目立つ結果にもなっている。
 柴崎友香さんの文章の自然さは流水のようであるし、そのなかに突然現れる不可思議な事象の面白さはとぼけているようでもあるし、きわめて本質的でもあるようだ。

 勝山海百合 「リモナイア」
 短篇小説に近いものが幾つかあってそのひとつである。勝山海百合さんはストーリーテラーであるが、緊密さ、描写の見事さにも驚く。注目すべき実力者である。

 あるとき、まだ幼かった母が変な夢を見た。家の座敷にいる母の前に人の腕が浮いていて、ゆらゆら揺れている。手首に華奢な腕時計をした女の左腕。その腕の指が庭のほうを指すので母が障子を開けて縁側のガラス戸越しに庭を見る……
 目が覚めても怖いような落ち着かない感じが残っていて胸が重苦しい。隣で眠っている祖母を起こして、「女の人の腕が庭を指さしていた」と言ううちに涙がこぼれてくる。泣き声を聞きつけた祖父が「もう寝ろ」と言い、「てのひらに黒子があった」と言い募ると、「いいから寝ろ」と声が厳しい。しかし祖母が「おっかない夢を見たんだね……」とすぐに自分の布団の中に入れてくれたので、母は安心して再び眠りに落ちた。

 日和聡子「お迎え」
 空気感、という語はしばしば目にして、それはおそらく英語の「アトモスフィア」という言葉と同義だろう。しかし、どちらも説明することはかなり難しい。「お迎え」にあるそれは、まるで自分がその場にいるような気持ちにさせる喚起力を備えている。ほかにいない書き手である。

 我妻俊樹「モーニング・モーニング・セット」
 我妻俊樹さんの文の持つ力は魔術的ですらある。そして素晴らしい独創性。難解ではあるが、もっと注目されるべき文章家である。


 けれどぼくたちは住むところ以外はだいたい失ってた。蟬の声が玄関から入って窓から出ていくのが見えた。蟬の声はよく見れば蟬と同じ飛び方をするのだ。窓の外には雲と、空と、木立がでたらめな順番に並んでいた。それを目で正しく並び替えていると、部屋のドアがノックされた。ドアを開けたら「郵便です」と云ってポストが立っていた。配達員がポストに届けた封書を、ポストが玄関まで届けに来たのだ。夏の太陽にはいろいろと無茶なところがあるねとぼくたちは思う。


 円城塔「for Smullyan」「店開き」

 今回の原稿として「店開き」を送っていただいたのだが、こういうものもありますということで、「for Smullyan」も見せていただいた。読んでしまうと収録せざるを得ない気持ちになった。
 我々が円城塔という文章家を持っているということはつくづく喜ばしいことではないだろうか。この短文はたぶん円城塔さんの真価にそのままつながっている。

 皆川博子「昨日の肉は今日の豆」
 皆川博子さんはおそらく日常的に口にすることもそのまま完璧に文章になっているのではないかと思う。まさに稀代の書き手である。さらに発想力も飛躍もあるという事実を見ると、文書の怪物と形容するしかないように思えてくる。

 上田岳弘「修羅と」
 これまでの上田岳弘を知っているかたは、この「修羅と」にかなり驚かれるだろう。この文はかなり詩に近い。そしてその内容、これはどのように解読すべきなのか。行間からにじみでる切実さが心に残る。

 谷崎由依「北京の夏の離宮の春」
 翻訳というものをあまり小さく考えるべきではない。翻訳は人間の言語活動やそれ以外にもすべてに見られる基本的な現象なのだ。知性的でスリルに満ちた文章である。谷崎由依さんの作品のなかでは、知性と詩性が手を取りあって踊っているようだ。虚空で。

 水原涼「Yさんのこと」
 集中ではもっともエッセイに近いものである。しかし同時にこの本のなかで見ると、もっとも物語性の強いものになっているようにも思える。それは逆説的であり示唆的なことである。水原涼さんもまた期待される書き手である。

 小山田浩子「カメ」
 小山田浩子さんの文の奥にはいつも解読できないなにかが潜んでいる。あるいはそれは不穏さのようなものであったり、記憶の領域の端に佇む形の定かではないものであったりする。
 われわれに見えるのはほんとうに世界のごく一部なのかもしれない。そんなことを思わせる。

 滝口悠生「半ドンでパン」
 ストーリーもなく、詩的な言葉もなく、しかし魅力をもつということがあり得るという好例である。なぜ魅力を持つか。この作品のなかにはひとつの時空がある。場がある。テーマについてよく考えた寄稿者のひとりのようでもある。何度読んでも不思議な印象をあたえる文章である。

 高山羽根子「日々と旅」
 高山羽根子さんはこれまで言語で捉えがたいものを追いかけてきた。その探求自体に独創性があるが、この「日々と旅」ではまだ名指すことのない文学上の主題を手に入れかかっているようだ。それはおそらく風を飼ったり、オーロラを売買するような作業だろう。

 岡屋出海「午前中の鯱」
 漫画家オカヤイヅミさんが岡屋出海として文章作品を発表するのは、この本がはじめてである。文中の時間の進み方が悠然としていて心地よい。そしてフィクションであるにもかかわらず、ここには何らかの種類の堅実性がある。

 大き過ぎるくらいがいいのよ、と母が言った。成長期ですからね、と洋品店のあるじも言う。私はこれから体が大きくなる。中学生の三年間ずっと止まらず体が成長したとして、この制服のサイズが完璧に合う一瞬を私は見逃さずにいられるだろうか。
 しつけ糸がついたままのスカートのヒダの角を指の腹で撫でる。いやに白い丸襟のブラウスと濃紺のジャンパースカートにボレロ風の上着。上着に内ポケットがついているのは気に入った。警察手帳を「さっ」と取り出すテレビドラマの刑事を思いうかべる。煤けたアパートのドアの隙間に、金のマークがついた縦型の手帳をパカっと開けながら差し入れる。部屋の主である寝起きの老婆は困惑している。中学校生活への想像はさっぱりつかなかった。

 藤野可織「誕生」

 短篇小説側に寄った作品。これはオールタイムベストクラスの作品ではないだろうか。藤野可織さんの作品を読むと、もし英語で書かれていたらぜったい自分が訳していただろうなとしばしば思う。世界文学がつねに隣にある書き手である。

 西崎憲「オリアリー夫人」

 タイトルのトラップ性に気づかなかったころに書いたものである。これも短篇小説に近いだろうか。そういえば、短文というものに思いを馳せるようになったのは、作家がしばしば「なにも起こらない話が書きたい」と述べることに気がついたときからであったし、たしかに自分もそういうふうなことを考えた。
 もちろん「なにも起こらない」の「なに」はいかにも小説的なことという意味であって、文のなかでなにも起こらないということはありえない。文とはつねに動きつづける運動体のようなもので、しかもその動きは読む者の目の解像度によって、見え方が違うはずである。

『kaze no tanbun 特別ではない一日』は、もうすぐ書店の平台の上に並ぶだろう。目次の位置、二種類の本文の組み方、銀の花布の美しさに、驚く方も多いかもしれない。そして特別ではない一日の刊行される日ははたして特別な日なのだろうか。
 いずれにせよ、この本はそれぞれの寄稿者や奧定泰之や竹田純や西崎憲や柏書房や精興社がそれぞれの職分にたいして誠実に作ったものである。なんのためか? 無限の曖昧さを持つこの世界であるが、そのことに曖昧さはない。あなたの本棚に置かれるためである。


※宣伝をかねて『kaze no tanbun 特別ではない一日』を印刷していただいた精興社を訪問したときの映像「本の生まれる場所」を YOUTUBE にて公開予定です。

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