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私は私の感情に追いつけるか
旦那さんとポケモンの話をした。
今旦那さんが読んでいる本がポケモン誕生の秘話などが書かれている本らしく、キャラクターデザインの担当者が1番最初に使ったポケモンはなんだ?というクイズを出され、そこから互いの好きなポケモンの当てあいっこをしていた。
とはいえ、私が覚えているポケモンは赤・緑・青の初期ポケモン151種類だけだし、ポケモンGOなどもしていない。
記憶も曖昧だったので、一覧を見ながら「可愛い系?」「有名?」「水属性?」などと質問攻めにしつつ、久々にポケモンを見て懐かしい気持ちになった。
私が好きなポケモンは、誰がなんと言おうとカラカラである。
見た目も好きだが「お母さんの頭蓋骨をかぶっている」という設定に、幼ながら心が動いた覚えがある。
カラカラは、死に別れたお母さんの頭蓋骨を被り、時折思い出して泣くという設定だ。
そんな子が骨を片手に戦うという姿に、なんともいえない気持ちになった。
しかし、それがどの感情かは分からない。
設定としては悲しいが、悲しいわけじゃない。
別に泣けるわけでもないし、ただ好きという感情で済ませていた。
・・・
コミュニケーションの本質は、他人とのコミュニケーションだけでなく、内なる自分の思考や感情に対するコミュニケーションも含まれている。
歳を重ねるごとに、後者のコミュニケーショの方が重要であり、自分を棚に上げて言わせていただくと、これが出来ない人も多いと感じている。
饒舌に語るくせに、自分との対話を一切しない。
思考や感情に向き合い、正しく現状を捉え、内なる自分と対話し続けることが出来る人はそうそういないのではないだろうか。
そして、そこには認めたくない感情や、自分に不都合な思考に出会うこともあるだろうが、そこから目を背けず、それはそれとして向き合う。
そう考えると、私がカラカラを好きな理由は、不都合なことがあったから問い詰めずに「好き」というだけで済ませてきたのではないだろうか。
答えはイエス。
自他共に認めるマザコンの私にとって、カラカラというのは同情の象徴だった。
おもんばかって、自分ごとのように悲しんでいるわけでない。ただただ、その悲しい設定に対し、他人事として「可哀想だ」と見下している部分が少なからずあったはずだ。
知りたくない。気付きたくない。
向き合いたくない感情だった。
ただ好きだけでいたかったけれど、同情する心に気づいていても好きな気持ちには変わらない。
そんな感情があることを知り、理解し、他人にも同じ感情があることを想像することが出来れば、他者とのコミュニケーションに生かすことが出来る。
同情と好きの共存はある。
持ち続けたい感情と受け入れたくない思考が共存することがあると知ることは、財産と思うのだ。
そしてそれは実世界の他人を、創作活動内と人物を、より理解することへとつながるはずなのだ。
・・・
自分との対話も、他者との対話と変わらない。
理解することは目指すものの、その全てを正しく受け取ることは難しいだろう。
ただし、理解しようと向き合うこと、すぐに諦めず、分からないなりにも理解する姿勢を持ち続けることが必要なのだと思う。
追いかけて追いかけて、追いかけ続ける。
他人の心ではなく、自分の心を捕まえなければ。
ちなみに、旦那さんが好きなポケモンは
1位がカビゴン、2位がヤドランでした。
私の2位はコダックです。
なぜコダックが好きなのか…あのアホ面がたまらん。
この感情はすんなり受け入れられました。
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