良い問い 対 良い答え
中学1年生の秋頃のこと。
担任は国語の先生だった。部活の顧問でもあったこの先生のおかげで、私は国語の教員になりたいと思った。しかし、思春期真っ只中の私たちにはその場で素直に先生のありがたみを感じる事はできなかった。
中学生活にも慣れ始め、クラスメイトも「もう小学生ではない、もう子どもじゃない」という意識が芽生えたのか、質問は?と問われるたびに皆沈黙を作るようになった。
入学当初はそんなことなかった。
まぁ、本当に質問がないこともあったが、「今言ったじゃないか!」というようなものも含め、質問はそこそこあったのに、皆すっかり変わってしまった。
シンプルに話を聞いていない人、手を挙げて質問をするという行為が気恥ずかしくなった人、そして訳知り顔で何もかも理解することが大人だと思い込んでいる人。皆いずれかになっていったように思う。
すると、先生は「話を聞いていて何の疑問をもたないのは、聞いていても考えていない証拠だ。それは聞いていないに等しい。」と学園ドラマさながらのドヤ顔でお決まり文句を言った後、ニコニコしながら言った。
「良い問いは、良い答えに勝るんだぞ。いつかきっと、その意味がわかるときがくる」と。
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思考力を育てるためには、疑問を抱くことが大切だと、大抵のビジネス書や自己啓発本などにも書かれている。
もちろんそれには反論はない。
でもその疑問をどうするか、その後がとても大切ではないか。
私は今すぐ必要でない疑問ならば、あえて解決させずに反芻しながら熟成させるべきだと思う。
もちろん仕事や今すぐ手に入れたい情報であればすぐに調べたり人に聞けばいいが、疑問を何でもかんでも人に聞くのは子供のすることだ。
だから、今流行の「不要不急」の疑問であれば、そこに必要なのは答えではなく、その疑問を育てることではないだろうか。
分からないと認めた上で、繰り返しふと思い出したときにその疑問や謎に何度も何度も立ち向かう、ぶつかり稽古のような思考の訓練がいいのではないかと。
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「良い問いは良い答えに勝る」
やっぱりどう考えても、これは言い過ぎのような気がするが、それほどまでに人生には問いが必要なときもある、ということは理解できる。
長田弘の詩の一節に「問いと答えと、今あなたにとって必要なのはどっちですか。」というものがある。
問いと答え。
今の私にとって必要なのはどちらだろうか。