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「肩こり」があるのは日本だけ

私の職場は小さい部署なので、そもそもの人数が少ない。加えて、産休育休取得率100%を誇る部署で、家庭をもつ方が時短制度をとっていたり…。よって夕方以降は上司と2人で仕事をしていることがほとんどである。

この上司というのが非常に話題が豊富な方で、博学な上に話し上手。私の他愛のないつぶやきを拾って話を広げてくれる。または私が食いつきそうな面白ネタを投げてくる。一言で言ってしまえば雑談なのだが、科学・歴史・宗教・教育・哲学とあらゆる分野の話をしてくれる。

毎日「仕事の邪魔してごめんなさい」とお互いに言い合うものの、結局日課になっている。休憩と呼ぶには頭を使うし、雑談の割には学びが多い。でも居心地がいいか?というとちゃんと気も使うから非常に曖昧なのだが、なんだかんだでこの時間がお気に入りになってきた。

昨日のネタは「肩こりはある?」から始まった。まあ、人並みにはあると思うと答えたところ、「じゃあ日本人の証拠だな」と。なんのことかと思ったが、続けて「肩こりというのは日本人しかないもの」だと言っていた。

そんなわけなかろう、とは思ったのだが、あながち否定もしきれない。なぜならば、外国には「肩こり」と表現する言葉そのものがないからだ。

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どうやらこれは有名な話らしい。

サピア=ウォーフ仮説という考えがある。さまざまな言語学者が反論したので「仮説」となっているのだが、私はこの考えを的確だとだと思っている。

端的に言って仕舞えば、言語によって人の思考は大きく変わり、その言語にない言葉は認識していないということである。

肩こりの例で言えば「あー、今日は疲れたな」「本をずっと読んでいたら体が痛くなったな」と思うことはあれど、「肩がこったなー」と思うことはないため、肩こりに悩むことはないのだという。

この考えが正しければ、言語によっては現実世界を正しく把握することができないということになる。

翻訳できない日本語として「木漏れ日」があると本で読んだ。この仮説が正しければ、木と太陽さえあれば、世界中どこでも生まれそうな木漏れ日も、日本にしかないものということになる。

「やばい」「すげー」しか知らない子どもたちは、その2つの言葉でしか感情を表すことができないだけでなく、そのほかの感情がないということになる。

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私は「なんとも言えない気持ち」「筆舌に尽くしがたい感情」を抱えることが多い。これは私の語彙力の問題だが、確かにそこに感情はあると思っている。また、創作活動をする上で、これらをいかに言葉にするかが醍醐味だと感じているが、端的に表すことができない。だから、さまざまな描写を用いて表現するものだと思っている。
(もっとも、全てを言葉にしてしまわないほうが小説においては面白いと思うが)

しかし、この仮説が正しいとするならば「言葉にできない思いは、ないものと一緒」ということだろうか。日々感じる小さな気づきや見えているものを「ないもの」にしたくないならば、言葉にしなければ。

上司と話すあの時間は、なんと名前をつけようか。

今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。