「無償無条件の愛」至上主義やめろや
「無条件で愛されているのは、子供ではなく親の方」なる言説をTwitterで見かけた。「いいね」やRTの数を見るに、賛同者は万単位のようであった。
私の感想は「んなわけあるかい」というものだ。子供が親を無条件に愛するなど、自分の幼少期を思い返してもありえない。
お菓子やおもちゃを買ってもらえないくらいの些末事で大泣きし、共働きでなければ食べていけないと察していながら保育園は嫌だと毎日のように駄々をこね、要望を叶えてくれないイコール自分を愛していないということだな!?とプレッシャーをかけて親をコントロールしようとする子供。それが私だった。
もうすぐ4歳になる我が息子も、ワガママ最盛期の私に比べればだいぶ手ぬるいとは言え似たようなことをやってくるので、時代が変わっても子供の行動パターンはそう大きくは違わないのだろうと感じている。
住むところも着るものも食べるものもとりあえずは不自由せず、特段トラブルのない我が家でもこうなのだ。
先の言説は、「〜という事実に一人でも多くの親が気付くべき」と続くので、親から虐待(暴力やネグレクト)を受けた子供が保護されたときに、それでも親を恋しがり、一緒に暮らしたいと主張するという話などから来ているものと推察するが、それを子供の「愛」ゆえだと解釈するのはあまりに身勝手な美化だろう。
あれは依存だ。他に頼るあてがないのだから、親にすがりつく以外にないではないか。よくある支配の方法の1つに、他の依存先を断つというのがあることを考えても、当人の自由で主体的な選択の結果とは考えがたい。
多くの親が自覚すべきなのは、子供の愛ではなく、家庭内の権力の不均衡だ。例えば、私が疲れて横になっているのが許せずに泣いて怒って、「やめて」と言っても足蹴にしまくってくる子供は、あるポイントでなぜか「ごめんなさい母ちゃん」と謝って、折れてくる。
それで「わかってくれてありがとう」「もう怒っていないから大丈夫よ」と抱っこされて撫でられ、ジュースなどの好物を出されて機嫌を直す。善悪の概念も共感性もまだ不十分な3歳児のこと、そこにあるのは「悪いことをした」という反省ではなく、「これ以上やると主たる育児者に嫌われてヤバい」という保身だと思う。
その「越えたらいけない一線」を読める才自体は褒めるに足るものだが、言ってしまえば親の庇護がなければ生きられない幼児の忖度に、大人が甘えている構図なのである。
際限なく甘やかすわけにはいかないと、こちらで譲歩できる限度を決めていて、それが「躾の一環として妥当」と社会的にも認められるとしても、実は私には、そのラインを気分次第で動かせる権限がある。だから怖いのだ。
その優位性をまず自覚しなさい、みだりに権力を用いて弱者たる子供を虐げてはならない、という規範意識は正しいと思う。だが、その倫理観を「無条件に慕ってくれるこんなにもいとけなき存在を、あなたが守らなくてどうするのだ」というような謎の感情論にすり替えないでほしい。
同じチームのメンバーとして、お互いWin-Winになれるように努める。個人レベルでできるのは親も子もそれくらいだ。
何らかの事情でそれができない家庭にどういう組織がどのように介入するのが適切かというシステム面の話なら有意義だろうが、「愛情」などというふわふわしたものを共通言語にして上手く社会を回そうというのはもう無理だ。
生育環境や生まれ持った特性の影響で、愛とは何か?ということがよくわからない人に対する、「愛し愛されて生きている人」のマウンティングにも感じるし、その意味で差別的だとも思う。
妊娠出産して母親になったからと言って自動的に無償の愛など備わらない、そういう認識が世間に浸透したと思ったらこれなので、正直辟易している。私も他のお母さんも聖母ではないし、うちの子も他のお子さんも天使ではない。それでもなるべく仲良くやっていきたい、それで良いではないか。