入学してない人間によるエヴァ卒業式感想
先日、故あって我が不倶戴天の敵であるところのエヴァンゲリオン劇場版を見てきた。
「シン」が付くから別物と言ってもいいのかもしれないが、まあエヴァンゲリオン作品には違いない。
26年前のTVシリーズは、いわゆる「ごく普通」の中学生生活を諦めていた私に、「ヲタク」として生きることすら許されないと絶望を突きつけた作品だった。
最初2〜3話見て、世界観が合わないと思って離れた。なのにその後話題になりすぎて、当時のヲタなら履修して当たり前のアニメになっていた。あの時代、話題の作品を網羅することがヲタクの必須条件だった。
知らずにいられれば良かったが、毎月欠かさずアニメディアを買っていた都民には、その空気感は無視しがたかった。勇を奮って再び見てみようとした。
…結果、そこそこ好印象だったトウジくんが色々ぐちゃぐちゃめんどくさいことになった挙げ句、足を失くして病室にいた。
あのとき、これは駄目だと思った。それまでに学んだ「物話」の定石とはあまりに違いすぎた。無理に見続けたら私は死ぬ。歌が良いとか作画がすごいとかでごまかせるレベルでは断じてない。
そこですっぱり縁を切った。どれだけブームになろうとも知らんぷりを決め込んだ。
ところがどっこい、全然別のジャンルにいても、エヴァは「共通言語」として話題に出る作品になっていた。
困り顔で「ちょっと作風が合わなかったんですよね〜」とやり過ごすことすら許されなかった。ヲタのくせにエヴァを理解できないなんてありえない、と大して親しくもない人間に頭から否定されることが何度もあった。
例えて言うと、私は近代の文豪をろくに知らない。森鴎外の『舞姫』は何なんだこのクソ男は、という印象しかなかったのだが、その感想を文芸部で公言して、「だよねーわかるー」と共感を得られるわけがないのだ。
せいぜい、「人生経験浅い子にはまだ難しいのかなあ?」とかいう、歩み寄りに見せかけた蔑みがいーとこはーとこである。
「あの残酷さが人生の真実だ、それを描き出せるのが天才なのだ」というような論調だったと思う。
はあ?ふざけんなバーロー!とは、その当時は言えなかった。言っときゃ良かった。
私の感性が鈍いのだと思い込まされていたけれど、あの手の人は作品の権威で他人をぶん殴れるのが気持ち良かっただけだ。
あの素晴らしさがわからんヤツは駄目だと言いながら、本当に理解しきれていた人などろくすっぽいなくて、ほとんどは「わかったつもり」になっていただけだ。
「みんな頭いいんだなあ」と思って眺めていたが、わからんものをわからんとわかっていただけ、こっちのほうがまだ無知の知だった。
どこかの誰かの緻密な考察を上から目線で論評したり、元ネタだのオマージュだの豆知識を仕入れては他所で披露したり、「難解な作品の理解者たる自分」に酔うのはさぞかし楽しかったに違いない。
ヲタクがマイノリティに優しい、というのは幻想だ。いざマジョリティ側になった途端に、極めて無神経にマウンティングをかまし始める。ほら、ついこの間も、「キメハラ」なる新語が生まれていたではないか。
その頃は造語にすらならなかったエヴァハラのせいで、私はすっかり流行の作品というやつが嫌いになった。タイバニもまどマギもマクロスFもコードギアスも進撃も、華麗にスルーしてただただ好きな作品の好きなキャラだけを推して暮らしてきた。
ちなみにそれらの流行作品の一部はブームが過ぎ去ってから「ヲタク一般教養」として履修を試みたものの、最初に合わないと思ったら合わない、その感覚が覆ったことは未だなく、そのあたりは個人の好き嫌いなので致し方ないのだろうと思っている。何しろ戦隊シリーズですら、作品によって合う合わないがパッキリ割れる女だ。
そんな人間が結婚した相手が、そうとは知らなかったがコッテコテのエヴァヲタだった。言いたかないがエヴァハラもめったくそに受けた。
何のどういう場面なのかよく知らないがとにかくすごいらしい映像を流されて、瞬きすらせず全フレームを捉えられたらそのすごさが認知できると言う。できるかよ。
義父母とは元から絶縁状態で嫁姑問題に一切悩まされない代わり、「俺の大事な親とどうして上手くやれないんだ?」と言われない代わりがそれだった。原家庭が複雑だった夫にとって、愛した作品が親同然だった。
嫌いなものは嫌いなんだと、無理やり見せてわからせようとするなと、泣いて訴えた。とにかくエグくてグロくて気持ち悪くて受け付けないと、パイナップルやマンゴーを食べたら蕁麻疹が出る人間に「アレルギーなんて甘え」と言うようなもんだと怒った。
夫にしてみれば、好きな作品を否定されることは人格否定も同然だったのだろう。ストライクゾーンが狭すぎる私を「お素麺しか食べられないタイプ」と評した。
私はそれを「つまらない女」と同義だと受け取った。感性の違いで済むところに、「多様な作品を楽しめるほうが偉い」という価値判断を持ち込んでくるのが許せなかった。それは私が幼かりし頃に親に押し付けられたのと同じ価値観で、心の傷にしてコンプレックスであるところ、要は地雷を踏み抜かれたのだ。
食べ物の好みも金銭感覚も子供の教育方針もだいたい一致する夫婦だが、ことこの件に関しては両者譲らず、不毛な戦いは年単位で続いた。「あなたはそれが好き(嫌い)なんだね、わかった。でも自分は嫌い(好き)なんだ」というのが他者の尊重だと言うけれど、それを成立させ続けるのは難しい。
夫は疲れたり不安になったりするとエヴァに縋りたくなるらしく、幾度となく布教を試みてきた。人のいない過疎ジャンルでもあるまいし、ファン同士でいくらでも語り合えばいいでしょうに、というのは通じない。一番身近な家族だからこそ分かち合いたいという理屈だ。
私は断固受け入れなかった。夫の愛の押しつけを己の信教の自由にかけて拒み、そのたびにお互い傷ついてきた。
そしてこのコロナ禍の中、公開されたのがシン・エヴァンゲリオン劇場版だった。夫は当然、初日にいそいそ出かけていき、何やら浄化された顔で帰ってきた。
だがしかし、話を聞くに、昔あれほど拒絶反応を起こしたエヴァとはあまりに違いすぎる。解せぬ。
夫は食事時にYou Tubeであれこれ解説動画を流したが、それで把握できるような話なら苦労はなく、夫に質問してみてもイマイチ要領を得ない。
ともあれ、これまでと違い、心身に害はないらしい。「シンエヴァなら見てみたいかも」とモノの弾みで言った。夫はことのほか喜んで、「いつ行く?」と何度もせっついてきた。私としては別に円盤(夫が買う前提)を待っても良かったものが、いよいよ引っ込みがつかなくなって、劇場にお金を落とす運びとなった。チケット代を奢らせなかったのは私の意地だ。
さすがに4DXだのMX4Dだののシアターはすでにコナンやるろ剣に取られており、2Dで見た。余談だが万全の感染対策を謳うイオンシネマ市川妙典のアップグレードシートは快適だった。映画館が苦手な理由に隣の人との領土(肘掛けの所有権)争いがあるという人にはオススメだ。椅子のクッション性もいいし、パーテーションのおかげで周りが気にならない。
なお、話題のトイレ問題は、上映直前のタイミングで用を足しておけばMサイズのドリンク付きで鑑賞しても特段支障はなかった。ご参考までに。
さて、肝心の感想である。技術の粋を集めた映像美はあれだけで価値がある、というのは確かだと思った。何をどうやって作っているのかさっぱりわからんが素人目にもすごいことはすごい。動かない座席でもちょっとしたアトラクション感がある。
ただ、画やら演出やらにそこまでこだわり抜いた芸術品の割には、脚本に「何となくそれっぽくしゃべらせた」ような雑さを感じた。リョウジくんが14歳なら「空白の14年」は15年必要じゃないのか(サードインパクトの時点ではミサトさんのお腹膨らんでなかったし)とかもそうだが、ヲタクになりきれなかった半端者とは言え二次創作をかじった人間だ、「作者の都合で言わされた」セリフくらいは感知する。
トウジくん、もといトウジさんは、「お天道様に顔向けできないようなこともした」と辞書から引っ張ってきたような言葉選びをする人ではない気がした。「可愛がってくれた婆ちゃんに知られたらはっ倒されそうなこともした」みたいな言い方をするタイプだと勝手に思っていた。詳しい家族構成や生育環境知らんけど。
そこはまあ、単なる妄想で取るに足らん戯言だが、ミサトさんの死に際は明確に変だった。
2人の父親(実父と加持さん)の背中を追うことに人生を懸けて、つまりは「子」としての立場と「艦長」としての役割を全うするために母であることを放棄した人として作中で描写されている。一度も息子に会っていないということは、産んで初乳をあげたくらいでハイさよならである。
おまけに名前を「リョウジ」と付けている。あれは正直、気色悪いし縁起も悪い。せめて「リョウタ」とか「リョウイチ」にしとけと思った。
ことほど左様に、徹頭徹尾、「母親」をやっていない人なのだ。それが今わの際に息子を思いながら特攻ちゅどーんするというのは、母性に対する都合のいい幻想ではないのか。そんなに格好良く死んでくれる人なのか。
リョウジくんへの情がないことはないにしろ、背負ってきたものはもっとたくさんあるだろう。今までついてきてくれたクルーの面々やらリッちゃんやら、父親やら加持さんやらをだーっと思い浮かべて、ついでに呑みそびれた獺祭をチラッと思い出して「あれ勿体なかったなあ」と惜しんだりするタイプではないのか。
そう夫に言ったら、「確かに」と頷いた。「旧劇では死ぬ間際に『カーペット換えときゃ良かった』だったもんなあ」と。
我が子を思いながら犠牲になる母親は美しい。が、あれは観客を泣かせるための仕掛けだ。涙スイッチを押されただけで感動したわけではない。ミサトさんの本質を描き切ったとは思いがたい。
加持さんも加持さんである。自分の血を分けた子をこの世に産み落としてくれた女のここ一番をほっぽらかし、顔も知らぬ我が子に思いを馳せるわけでもなく、ほけほけ渚司令としゃべくってる場合かってんだ。私はあれで、この人は別にミサトさんに心底惚れてたわけじゃないんだなと解釈した。苦情は受け付けない。
トウジさんと委員長の「親」ぶりがテンプレート的なのはまだわからなくもなかったが、ユイさんがちゃんと母親やれてた前提なのも謎である。マッドなふりしてクレイジーなサイエンティスト夫婦だぞ。離乳食の作り方がわからずに水でふやかしたカロリーメイトあたりをシンジくんの口に突っ込んでたとしても驚かん。
ゲンドウさんが父親をやれなかった事情は懇切丁寧に描写しておいて、ユイさんが母親になりきれなかったことは曖昧に流しておしまいというのはアンバランスすぎると思う。可愛い盛りの3歳児を残してエヴァに取り込まれるような人だぞ。「このときのために僕の中にいたんだね」って何だ。
こちとらネタバレ動画見せられまくってゲンドウさんが元愛人だったナオコさんの娘にまで手を出したクズ野郎だってこと知ってんだぞ。エレクトラさんを娘のように思っているとか言いながらちゃっかり孕ませてたネモ船長も大概だったがその比じゃねえ。今更純愛気取ってんなよこのスットコドッコイ。
というわけで、ストーリーの総括としては、風呂敷を畳んだというよりは煙に巻かれた感が強い。
フワフワした満足感はあり、映像に圧倒されたことも含めて「良いものを見た」と評することは可能だが、よくよく分析してみると「結婚して子供がいる現況」を祝福されて気持ち良くなっているに過ぎず、主人公の選択を見届けたカタルシスから来るものではない気がする。
過去作未履修のアンチだから良かったようなものの、信者だったらおそらく納得していない。アンチの立場からしても、いきなりこっち側に擦り寄られてきた戸惑いは否めない。「理解してくれる人が想像以上に少なかったことからわかりやすくした」そうだが、しれっと宗旨替えされても困る。
スパイスにこだわった本格カレーを、辛すぎて食べられないと言って「バーモントしか食えないお子様舌」と散々馬鹿にされてきたのだ。今更「バーモント旨いよね」と一般受けを狙ってどうする。大半の客はあの激辛を求めていたんじゃないのか。
セルフオマージュがどうのこうのと小手先のファンサービスばかり取り沙汰されているが、そもそもあの世界の神とは何だったのかの説明を受けていない。「父さんの願った神ゴロシ」の際に何か別の概念とすり替えられたことは察した。個人的にはそこが一番「ごまかされた」と感じたポイントだ。
使徒がいなくなればエヴァも不要になる道理だが、知恵の実を食べた人類を疎んじて使徒に滅ぼさせようとしていた神とやらはどこへ行った。エヴァは雛祭りのヒトガタか。人類の身代わりに川に流してめでたしめでたしか。
わからんものがわからんまま、エヴァだからそれでいいということになって終わった。釈然としない。尽きせぬ恨みをどうしたものか、まだ決めかねている。