2022年「寛容性・目的・習慣・意味」
2021年が終わって2022年に。年末特に12月は例年以上に喜怒哀楽の激しい月だった。そんな一年だったが、2022年にかけて忘れないようにnoteに書き留めておきたい。
新年の始まり
例年大晦日から新年は妻の実家にいく。多摩地区の奥の方で1時間半くらいで到着する。
孫も含めると大家族になったので(まだこれから増える)、今回は10人が一つ屋根の下で寝食をともにした。一人っ子で3人家族、そして年末年始を祖父母とともに過ごしたことがなかった私としてはとても新鮮な経験だ。
もちろん親父と酒を飲んだこともないので、義父と飲み交わす酒は不思議なものに感じる。普通の親子ってこういうことなのかと。
今年の12月は忘年会や会合も多く毎日のにように飲んでいた、このままでは体が壊れると感じていたということもあり、大晦日くらいは控えめにしておき、除夜の鐘は聞かず一人先に就寝をした。
酒が残らない翌朝、酒を飲まない翌朝というものは格別だ。誰も起きていない5時に目覚めて、習慣化しているモーニングルーティンをすべてこなしていく。まだ誰も起きない午前7時、そろそろ朝日も見れるかということでふらっと武蔵野台地の寒い朝(-3度)へ入ってみた。
元日に3冊を読む
早朝なのにふらっと開いていたコーヒーショップに入って、コーヒーを飲みながら2冊の本を読む。一つは「NewType」という本で、やや小難しかったので、年末からちょっとづつ消化していた本だ。
2019年に出された本なので、コロナでやや変化もあったかもしれないが。つまりオールドタイプに支配されている日本のビジネス社会とその「空気」感への警鐘である。さらに、この数十年もてはやされたビジネスの正しい解決方法といわれて「MBA教育」や「MBA的思考」についてもこれからは役に立たないと。賛否両論もあるとおもうが、SDGsを始めとして、資本主義そのものの変化が求められる現在では頭にいれて自己変化をしていく準備は、成長したいのであれば求められるだろう。
快楽にふらないために目的と手段
自分も含めて多くの人が取り違えられがちだが、今年も行う行動について目的なのか手段なのかを明確に仕分けをしていきたい。習慣化されていることがあればあるほどこれはなんのためにやっているのか、ということを明確化していなければ、人間は「快」つまり「快楽」を感じることを優先してしまうからだ。
ダイエットをしているのにケーキを食べたい。禁酒したいのにお酒を飲みたい。英語の勉強をしなければいけない時間なのに、スマホを万全に見て過ごしてしまった。
これはどれも快楽を優先してしまった結果であり、人間の本能だ。しかし、目的を追求したいのであれば、その先の目的につながることなのかの意識を強く持っていきたい。
ちなみに、恥ずかしながら断酒をしていた9月と10月、そして飲酒をしていた11月と12月(特に12月の飲酒機会と量は多かった)の英語の学習の差を見てほしい。
私は英単語や英書を読みながら、また仕事上で出てくるわからない単語をスマホに保管していく。フォルダには200単語が上限なのだが、学習時間の違いについては一目瞭然なのだ。
悔しいくらい、不甲斐ない。私にとって英語力の維持・向上は目的ではなく仕事上の手段。その手段のための時間を効率化・向上化するための手段の一つが「断酒」ということで間違いない。飲酒は、時間の喪失だけではなく、知能の喪失ということを招く毒物だ。5年もしたらテレビCMは禁止され、飲酒はタバコと同じようにするしないで、人としての分断が起きるだろう。
人とあって食事をすることは、交流を深めたり、新たな発見を得て、人生が豊かになるための手段だ。しかし飲酒を伴うと帰宅後や早朝して本来行える学習を阻害しているということで、慎むべきことだろう。
ちなみに習慣についての重要性や脳を変化させて習慣化させるメソッドは、1日でよめる。こちらに出ているのでよければ参考にしてほしい。
寛容性と経済
年末のある日、葉山の別荘によんでいただきお邪魔したのだが、だいぶ聞かれて久しい「地方創生」「都市論」について考える機会があった。
不動産ビジネスに携わる私ではあるが、地方創生という言葉や、なぜ政府がそれを支援しているのかについては深く考えたこともなければ明確な答えもなかった。いくつかの話と本を読む中で、地方創生の目的はさりとて、都市に人が集まってくる意味について自分ごととして考える機会となった。
これは、過去フェイスブックでも自分個人というものを振り返り、なぜ人との接点を求めたくなく、孤独を求めたのかということで言えば、学校という環境に寛容性を感じずに息苦しかったのではないか。
都会で育っていて、都会で暮らしている自分ですら、「何者」(朝井リョウ)のように、就職活動をするまで自分が何者なんだろうなんて気にもとめいなく、ただ都会にまみれていて、なにかに属していない「薄さ」に寛容性を感じていたのだと思う。
人口が減少する中、地方創生が叫ばれる中で、高い都市機能や職を求めるという意味での「都市」の価値が東京一極集中を促しているのではなく、人が多い、多様性が強い都市東京が寛容性と相まって今の若者には特に魅力に感じているのだと感じる。この論文を読み、私はそう感じた。
自分ごともそうだが、海外多くの人種と仕事をしている、多様性は感じているがそこに寛容性があるだろうか。ビジネスに目的・意味をもたせながら高速にすすめていく企業運営上求められているように感じる。