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「『育てやすい子』の育児だって大変だと思うよ」って2人目育児中の友達に言ったはなし。

先日、2人目の子供が7ヶ月になろうとしている友達と話をした。

その子が「私の子供はほんとに、2人とも育てやすいタイプなんだと思う」と言った。

そのときの表情が気になった。

何か悪いことをしているかのような。

育てやすい子、というのはとてもいいことなのに、それを口にするには不思議なほど申し訳なさそうな口調と態度だった。

その理由にはなんとなく心あたりがあった。

我が家には2人の子供がいて、1人目は寝ない食べない、それなのに発達は早めでよく動き回る乳児だった。

2人目は本当によく寝て、泣いていても駆けつける前に再入眠するくらい。ごはんも食べすぎ、ではない程度に用意した分はちゃんと食べきってくれる。

「2人目はほんとに楽!」にたまたま当てはまったかたちになる。

1人目がとても楽で良い子で、2人目がめちゃくちゃアクティブで

「育児なめてた…」と驚くパターンもよく聞く。

育児の大変さは、子供の性質によるところはとても大きいとは思う。

でも、2人ともがいわゆる『楽な子』だったら育児は全然平気なのかというとそうではない、と私は思う。

よく寝て、よく食べて、よく笑う子だったとしても1人目の育児スタート時の未知の生物の生命維持の全責任を負わされたプレッシャーはすごい。

「シッターや保育補助の経験もあるくらい子供が大好きだし、要領いいし、肝も座ってるし、育児なんて楽勝だろう」

と甘い算段で挑んだ私は痛い目を見た。

子供が寝ないことや食べないことよりも「死なせない」ことの責任感から来る悪い想像に絶え間なく襲われた。

理想的な母親らしい慈愛の瞳を子供に向け続けられない自分の不甲斐なさに毎日押しつぶされそうになった。

産後5日間遠方から来てくれた義母が帰ってしまう頃にはさらに不安で泣きそうになった。

ぐにゃぐにゃで柔らかくて、目立った意思表示のない小さい生命体。

夜泣きと授乳の間でうとうとと寝落ちた瞬間に見るのは「子供をうっかり…」という悪い夢ばかり。

自分以外の未熟な生命体の生活維持の責任を追う、というのは想像を絶するプレッシャーだった。

子供が生まれるというのは『新しい家族がふえました』なんていう生易しいものではなかった。

自分の食事も睡眠もままならない。

ゲロと体液と排泄物が見慣れたものになる。

いのちと対峙することの重さに押し潰されそうだった。

2人目になると、一度知った道なのでぐにゃぐにゃの血色をした頼りない生命体は愛しく懐かしい個体に感じられた。

経験のおかげで、不安よりも喜びが優った。

1人目の新生児育児が辛すぎた話をしたら義母は1週間の滞在予定を1ヶ月に伸ばしてくれた。

『健康できちんと世話をしていれば簡単には死なない』ということを知っているので、夜泣きの合間に悪夢が入り込む頻度はとても低かった。

多少泣かせたままでも行きたくなったらトイレに立てた。

幸いよく食べてくれる子だったけれど、『全然食べなくてもなぜか体は成長する』ということを知っているので、食事に対しても気楽に挑めた。

結果的に「2人目は楽」を享受することができた。

この“大変さの違い”は、子供たちの性質とは全く別のところで、親である私側の問題も大きかった。

例え1人目がよく寝る子で万全のサポートを受けられていたとしても、初めての育児なら泣いてもいない夜中にふと起きて呼吸を確認したり、子供が生まれたことを忘れて出かけてしまう悪夢を見たんじゃないかと思う。

育児というのは楽な子でも、めちゃくちゃ大変だと思うんだよ。

大変な子なら育児が大変、楽な子なら育児は楽っていう単純な話じゃなくて。

全然寝ない食べない子でも、周りにサポートしてくれる家族がたくさんいたら、よく寝るよく食べる子を1人で育てているお母さんより大変じゃないかもしれない。

周りにサポートをしてくれる人がたくさんいて、よく寝てよく食べる子だったとしても、周りとの関係がイマイチだったり、些細なことが色々気になるタイプだったら?

寝ない食べない子でも、親がショートスリーパーでおおらかなタイプだったらそんなに大変だと思いつめないかもしれない。

性格はもちろん、親の体の丈夫さだってそれぞれだし。

住んでいる場所の気候や、近隣に支援施設がどれくらいあるかどうかも全然違う。

子供の性質だけじゃなくて、親の性質、その環境色々な条件が全員違う。

だから、育児が大変か否かっていうのは比べようがないんだよ。

押しつぶされずにそれなりに楽しみながら今2人を育てられているから、楽な子だったんだなって思うのは全然いいと思う。ラッキーだよ。

でも本当にまず育児はさ、いきなり自分以外の何にもできない生物の面倒みるわけで。

やることも責任感も大人とだけ暮らしてるときとは全然違うんだから、例え楽な子だったとしてもとにかくベースは超大変!なんだよ。

だからほんと毎日よくがんばってるよ〜。

こんな風に、思うままにだらだらと私の考えを話したら

「ありがとう。なんか超、ラクになった!」

と友達が喜んでくれた。

そして、

「私の子供はほんとに、2人とも育てやすいタイプなんだと思う」

と言ったときの『何か悪いズルをしてしまっているような表情』が消えた。

大変な人がいる、ことと自分がなんとかやれていることは全く別の話で。

育てやすい子に恵まれたことから、他に大変な人がいることに罪悪感を感じる必要はないと思う。

私がどこかの子沢山で幸せな富豪に「とても苦労してるのね」って憐れまれてもびっくりするしなあ。

自分が楽だと感じられることは誰にも何も悪いことじゃない。

人を騙してズルしてるわけじゃない。

そして、傍目に見て子育てに恵まれた環境のなかでも大変だと感じるのも悪いことじゃない。

もちろん、色々な理由から大変な状況で、育児を大変だと感じることは大変なんだから当たり前だし。

自分の気持ちは自分のもので、環境も性格も体力も体格も違う人と比べられるものじゃない。

自分以外を面倒みる育児は基本“大変”で。

「あの人に比べたら楽」が救いになるならそれでもいいと思う。

「あの人に比べたら楽」がもし自分の心を塞ぐなら、比べる必要は全然ない。

その大変さはどこかの誰かと共有できても、共有できなくてもいいと思う。


どうにか少しでも楽に、できるなら楽しく、めっちゃ大変でも腹くくって目の前の出来事に対策しながらやっていくしかないのが育児だし、生活だなと私は思う。


私が己の育児を楽にするために腹くくって対策した一部に、夫との関係構築や時短家電の導入、育児書での勉強などがあります。

それについてはブログでも書いてます。

でもこんなのって外堀でね。

本丸はやっぱ『自分の感じ方、自分の気持ち』だと思う。

環境を万全にしてもうまくいかないときもあるし、何もいいことがないけどなんか上向いていられるときもある。

辛いときは辛いで良いし、楽だなと感じるなら楽でいいよね。

それを聞いて誰がどう思うかまでは自分にはどうしようもないものだし。

読んでくださってありがとうございます!