社会的役割をそぎ落とすことについて

転職活動をしていると、面接の中で必ずといってもいいほど、志望動機、というものを聞かれる。志望動機への回答として望ましいのは、2つだ。自分のやりたいことと、やりたいことを実現する上でその会社でなければならない理由。

前者のやりたいことはまぁ、いい。数多ある「やれることリスト」の中で極力やりたくないことを消込していき、残ったものに対して「自分はこれをやりたいのだ」と自分で自分を洗脳すれば何とかなる。

問題は、後者だ。その会社でなければならない理由。これをひねり出すのにはそれなりの労力を要する。基本的に、何かの領域や属性でオンリーワンの特性を持っている企業というのは一握りだからだ。それ以外のところに目を向けると、代り映えのしない風景が広がっている。当然、その会社でなければならない理由をひねり出すのは難しい。次第に思うようになる。自己愛の強いメンヘラ女のようなことを言う、と。

ここで、鏡を見てみる。自問する。私でなければならない理由はあるのか? ない。ひょっとするとあるのかもしれないが、誰かが「ある」と思えば「ある」のだろうし、「ない」と思えば「ない」のだろう。逆もまた然り、だ。

誰も彼も、互いに対して「本質的にその人でなければならない理由」など持ち合わせていない。だが、男女、友人、親子、雇用といった数多の関係が現に成り立っているのは、そこに社会的な役割をひねり出しているからだ。

一緒に暮らせる、他愛のない会話が出来る、庇護し/される、金になる何かのスキルを持っている。突き詰めればただの現象でしかないこれらの物事を、互いに役割として信じることで関係を結んでいるのだ。

だが、例えば、一人の人間から、これらの役割を構成する要素をそぎ落としていったとき、そこに何が残るだろうか。そこにはおそらく、一匹の賢しげな毛のない猿が、何をするでもなく佇んでいるはずだ。そんな生きているだけの存在を、人間は、社会は、わざわざ目に留めて何かの関係を結ぶだろうか。断言できる。いかなる関係も成立しない。

悲しいことに、人間という生物は、何の関係にも属さず、直接的に生物としての三大欲求を満たせば生きていられるといった単純な代物ではなくなってしまっている。食べ、眠り、交接するだけの存在を、いかなる文化においても人間とみなすことは困難だろう。

だからこそ、毛のない賢しらな猿が人間のフリをして生きていくためには、それがどんなに取るに足らないような事でも、役割としてラベリングして、互いに関係を結ぶしかないのだ。それが、互いのためにもなる。

ところで、私個人の考えとしては、あらゆる社会的な役割や価値、物語は全て妄想の産物なのだから、全て無に帰ってしまえばいいと思っている。あらゆる労働から、人間が稼働する意味を、雇用されるうえでの役割をシステム化によって刈り取り、あらゆるグッズは価値の交換が不可能になったただの物体と化し、集団に帰属する上での意識を解体し、剥き出しになった個人を野に放ちたい。

全ての人間が、生きようとするだけで生きていられるような世界、そのことを肯定される世界になってほしいと切に願う。そうした願いは案外、何かしらのニーズや役割に接続されるかもしれない。


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