映画『サンダーボルトファンタジー 西幽玹歌』の感想

※『サンダーボルトファンタジー 西幽玹歌』のネタバレを含みます。必ず鑑賞してからお読みください。

美形のお人形による武侠ファンタジー人形劇『サンダーボルトファンタジー』の映画を三回観てきた。
 率直に言って、最高だった。劇中、何度もゾクゾクとした。
 個人的に、『まどかマギカ』以来の映像作品と言っても良いと感じている。

 順を追って筋を辿っていこう。
 冒頭、草木も生えぬ山中で二人きりの母子が歌の稽古をしている。虐待の域にも入っている常軌を逸したスパルタ教育であり、この幼少期からの命懸けの鍛錬が浪巫謠の類稀なる歌唱力と武芸を育んだことは確かであろう。なお、終盤になり、この虐待じみた鍛錬に対しても異なる意味合いがあることが睦天命の口から語られることになる。
 まず、この物語は母と子の物語であることがベースとして存在しており、このことが全編に渡り物語に深みをもたらしている。これは単なる娯楽作品には留まらない、この映画ならではの特徴と言っても良いだろう。この点をもって、『サンダーボルトファンタジー』本編よりも本作の方を私はより高く評価している。

 少年はやがて二次性徴を迎え、声変わりを体験することになる。この少年から青年への身体的成長が、少年の庇護者であり支配者でもある母との離別の引き金となっていることは、非常に上手い符号であると思われる。
 この物語は、一人の少年が数々の苦い経験を経て、大人の青年へと成長する物語である。少年期の支配者としての母との別れ、そして、世知辛い世間からの庇護者である皇女との耽美な情愛に満ちた関係性からの脱却、この二つの「離別」を経て、浪巫謠は大人の青年へと踏み出すのである。
 このような細やかな少年/青年の半生を描いた作品は私は寡聞にして知らない。あるいは、『デミアン』や『狭き門』くらいしか思い浮かばない。この少年の成長物語としての完成度が、この映画に最大級の評価を与えるべき理由となっている。

 曰く付きの酒楼に雇われた浪巫謠は楽士として歌い続けながら日々を過ごし、眉目秀麗な青年へと成長する。この時間の経過の見せ方も見事であり、特に今回はカメラワークや演出が非常に凝っており、特筆すべきであろう。
 そして、青年は少女と出会う。睦天命の清楚な美しさについてはもはや語るまでもないであろう。もし、お人形として展示販売されていたならお迎えしたい、と思うほどの綺麗さである。透き通った高音の声も良い。頬にチークが入っているのもチャームポイントであろう。
 もし、睦天命との出会いがなければ、彼は皇女の鶯として生き続けていたのかもしれない。それは母の望みでもあった。邪悪なる皇女を守護する屈強の武人として君臨し、殤不患の最大のライバルとして死闘を繰り広げる展開もあったかもしれない。それはそれで面白そうであるが、しかしながら、彼は睦天命と出会い、そして、母以外で彼を愛した唯一の女性である皇女に別れを告げるのである。
 
 嘯狂狷率いる官憲に踏み込まれ、酒楼での生活は終わりを告げる。今回、嘯狂狷は良い働きをしている。世間知らずな青年に出世の道を開いてやったという意味で、彼は恩人と言っても良いであろう。無論、それは打算ずくではあったが。しかしながら、小悪党よろしく、浪巫謠からは疎まれ、皇女からは「知るかァ!」と平手打ちを食らったりと散々である、というのも彼らしい、と言っては語弊があるかもしれない。
 そして、皇女に見初められ、天籟吟者としての生活が始まる。それは、浪巫謠が初めて厳しかった母以外の女性から愛情を与えられた日々であった。それは幸福の一つの形であると言っても良いであろう。もし、睦天命という女性がいなければ、彼は皇女との耽美な関係性の中に溺れてゆく人生もあったのであろう。
 この皇女と浪巫謠の耽美な関係性、「世の悪からお前を守ってやろう」と約束する皇女の愛情、そのエロスのある場面は劇中における一献の甘美な美酒として機能している。真に大人のための物語であるという根拠ともなるであろう。それは純文学で頻繁に扱われるテーマであり、この物語により深みを与えている。

 浪巫謠が天籟吟者として睦天命の挑戦を受けた時、美しい睦天命の出番はここまでなのかと思った鑑賞者は多かったのではないか。私もその一人である。「Crescent Cutlass」のイントロが流れ始め、二人が歌い出した時、背筋がゾクゾクと慄えた。「歌の力」は確かにこの映画の中で重要な役割を果たしている。その重要性はあたかもミュージカルにおけるものにも近しいようにも思える。
 その白熱の合奏(セッション)、合唱(デュエット)、緊張感ある戦闘、空中へと舞い上がる二人の姿の美しさ、それはまさに天上の楽であり、劇中最高の名場面と言っても良いであろう。この辺りの「因縁のバトル」の仕立て方は、虚淵玄先生の真骨頂であろう。完璧な仕上がりであり、ゾクゾクと慄えが断続的に襲ってきた。

 そして、浪巫謠は睦天命の後を追い、皇女の元を去った。皇女の失恋の嘆きは想像を絶するものであったであろう。一方通行であったとはいえ、浪巫謠を母以外で初めて愛した女性である。彼自身も持ち前の直観力で、彼女の愛情が真実であることを見抜いていたであろう。そうであればこそ、いつでも逃げようと思えば逃げられたにも関わらず、彼は宮中に留まっていたのだ、という推察も成り立つであろう。浪巫謠は邪悪なる皇女、嘲風を愛してはいなかったかもしれないが、少なくとも、彼女から与えられる惜しみない愛情に心が揺らがされる面もあったのではないだろうかと、私は推察するのである。そして、前述のように、その関係性がこの物語により一層の深みをもたらしている。

 皇女の元を離れ、睦天命と殤不患の正義なることを見、己の魔性を自覚した浪巫謠は、世を捨てることを決意する。それは、孤高でありながら繊細な心を持った青年である彼らしい選択と呼べるものだった。
 そのまま凍て付く山中で朽ち果てるかと思われた彼を救ったのは、睦天命であった。彼女は、彼の母は「抜き身の刃に柄を与えようとした」のだという。そして、「人の魂がある限り、人とともに生きる道がある」と説く。その言葉は彼の冷え切った心に染み込んでいったのであろう。
 いま、彼の前には三つの道があった。一つ、彼を愛した皇女の元に戻る、ただし、これは彼の正義感が許さない。二つ、魔性の声を抱え、このまま白銀の世界で朽ち果てるか。三つ、彼の正義を成すために、再び世の不条理と対峙するか。睦天命と殤不患という無二の先達に触れた彼の前には、もはや答えは出ていたであろう。

 最終決戦、怒れる皇女の近衛兵を加えた百から千にもなる軍勢が睦天命と殤不患を包囲する。血路を拓き逃走するだけであれば彼らにとっては難しくなかったかもしれないが、神誨魔械と天工詭匠を置いた庵を死守しなければならない以上、逃走は不可能という状況であった。いかに天下無双の達人たちといえども持久戦となればやがて体力も尽きるであろう。焦りの色を濃くした睦天命が天工詭匠を催促して叫んだ時、空から舞い降りた純白の白鳥のような男は、まさしく浪巫謠であった。
「俺は、己の柄を握るッ!」
 そして、かつて少年であった青年は、母の面影と、世間での挫折と、己を愛した皇女と、そして、正義に燃える己の魂と、全てを背負い、いまここに、変身を遂げた(生まれ変わった)。
 圧巻である。

 以上が、『サンダーボルトファンタジー 西幽玹歌』の大筋と私の解釈である。
 最後に、もう一つ付け加えておかなければならない。これは布袋劇、いわゆる人形劇であり、人形による芝居であるということである。
 私は創作人形の愛好家であり、文化財級の希有なお人形たちと一緒に暮らしている身であるが、お人形には、他のものには替えがたい魅力があり、それは、「気配」あるいは「息遣い」「存在感」と呼べるようなものである。
 お人形がそこに「いる」だけで、その空間にある「気配」が漂うようになる。あたかも、お人形の支配領域に足を踏み込んだ異邦人に自分がなったかのような感覚、それは、お人形という存在が持つ無二の特徴であるようにも思える。このことについては、まだまだ私も勉強中である。
 そして、人形劇であることの価値もそこにあるようにも思えるのである。人間ではない、けれども、確かにそこにいて、生きているように感じる。その無機物と有機物、物体と幻想とのあわいに存在するような、その存在が持つ力が、この作品の根底を支えているように思えるのである。


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