【考察】痛みと救い~灰羽連盟~

※『灰羽連盟』のネタバレを含みますので、必ずプレイしてから読んでください。

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第1話

冒頭。定規でまっすぐに線を引いたみたいに落ちてゆくラッカ。

「心臓が冷たい」

この言葉が彼女の死を暗示していることは容易に想像できる。

荷物を抱え、廃屋のような雑然とした廊下を歩くレキ。

オールドホームにはこのような未整理の区画が幾つも存在する。

彼女の口にはくわえ煙草。

思えば、レキは不思議なキャラクターだ。

くわえ煙草に革ジャンが似合いそうなワルっぽいルックスでいて、物腰は大人っぽい。(緊急時や廃工場の面々とのやり取りを除く)

ラッカや小さな子供たちの面倒をよく看てくれる面倒見の良いお姉さんだ。

不満一つこぼさず面倒事を片付けていくその姿勢は、一家の大黒柱と言っても良いだろう。

オールドホームは間違いなく、彼女が支えていた。

全体を通して、彼女の献身ぶりに癒されることになる。

――けれど、皆の為に献身的に働く彼女自身は、誰が救うのだろうか。

それが大きなテーマとなる。

「こんな物置みたいな部屋で産まれたら、可哀想だ」

レキは自分の体験からこう言ったのだろう。

原作者制作の同人誌『灰羽連盟脚本集(以下、脚本集)』によれば、作者は第7話の脚本の改稿作業中に、レキの過去とクラモリの存在を思い付いたのだという。

つまり、この時点ではレキの過去を想定していない。

それにもかかわらず、上記の台詞がその後の伏線として良く生きている。

『脚本集』に度々、書かれているが、そのような言わば“偶然の一致”が脚本の執筆過程で幾度も起きたのだという。

それを作者自身も不思議に思ったと述懐している。一部の方から見れば、“神の手”の存在を想定することもできるのだろう。

「何かを見た気がするんだけど、思い出せない……」

ラッカが見た“何か”とは、カラスのことだろう。

初見では素通りしたが、これは重要な伏線だった。

――自らの夢を思い出せない灰羽は、壁の外へと巣立てない。

ラッカとレキがそれに当たる。

ただし、ラッカは古井戸の底でカラスと邂逅することで、自らの夢を思い出し、また、自分のことを助けようとしてくれる人の存在に気付くことで、罪憑きから解放され、巣立つ資格を得ることができた。

ここでは、ラッカの夢は“良い夢”であったと言えるだろう。

これに対し、レキの夢は紛れもない“悪夢”である。

夜の線路を歩き、列車に轢き殺される夢。

それを思い出すことが、巣立つ資格を得ることになるのだろうか。これには疑問が残る。

夢を思い出すことより、むしろ、“自分を助けようとしてくれる人の存在”の方が重要であるように思える。

最終話、レキは初めて誰かに助けを求め、ラッカの行動により、罪憑きの末路から逃れることができた。

――自分を助けようとしてくれる人の存在に気付く。

これは、全編を通してのテーマでもあるように思える。

第2話

オールドホームの皆に連れられ、街を散策するラッカ。

ラッカが選んだ洋服はセーラーワンピース。

古着屋のお兄さんが良い味を出している。

寮母のおばさん、スープ屋のおじさん、時計技師の親方、グリの街の皆さんはみんな親切で良い人ばかりだ。

“灰羽のための街”と言われるのも頷ける。

もっとも、ラッカが落ち込んでいる時に古着屋で出会ったアベックのような例外もあるが。

オールドホームに帰ってきた時、レキが部屋を暗くして煙草を吸っている。

初見では、何か悪いことがあったのかと勘繰ったが(皆には秘密にしている悪い仕事など)、レキの暗い面を仄めかしていると解釈することもできる。

あるいは、単純に寝不足なだけだったのかもしれない。

第3話

初めてレキの部屋に入ったラッカ。

これまでの優しいお姉さん然とした雰囲気とは違い、淡白な態度を見せる。

初見でも違和感を感じたが、これが以前のレキの姿なのだろう。

他者を拒絶するような鋭さを持った人。

灰羽連盟の厳格な掟と話師の厳粛な態度は、和やかなオールドホームや街の雰囲気とは対照的で、初見では灰羽連盟が悪巧みをする組織であり、グリの街を閉ざした張本人であるという仮説を持っていたが、それはミスリードによるものだった。

「善き灰羽であらねばらない」

この言葉は最後まで重く響く。

おそらく、事あるごとに話師はレキに対してもこの言葉を投げかけたのではないだろうか。

そして、終盤に話師が述懐しているように、話師の言葉はいつもレキの心を頑なにする結果に終わってしまったのだろう。

エプロン姿で子供たちの世話をするレキは驚くほどよく似合っている。

皿一杯のにんじんは確かに不味そうに見える。子供たちも逃げ出すこと請け合いである。

これはむしろ作画の勝利であろう。

一緒にヒカリのパン屋へと向かうクウとラッカ。

『脚本集』で作者も述べているように、やはり、一つの話数をクウのエピソードに充てたかったというのは本音であろう。

クウとラッカの絆の深さが描かれるほど、別離の悲痛な描写が生きることになる。

全13話でもぎりぎりであったシリーズ構成を考えれば致し方なかったことではあるが、その部分だけは改善点として指摘されても良いかと思われる。

「本当はラッカが妹だといいなって思ったんだ」

「私もクウみたいな先輩がいてよかった」

クウは年長組で一番、小さく、いつも皆の背中を追いかけていた。

街に来て最初に買った服は、無理をして皆の丈に合わせたものだったという。

そのような彼女がラッカという後輩を得て、初めて“誰かに頼られる存在”になることができた。

――大人になることができた。

そのことが彼女の巣立ちを決定付けることになったのだろう。

第4話

「鳥はさ、この世界で唯一、壁を越えることを許されている特別な生き物なんだ」

――壁を越える。

これはこの物語の大きなテーマであると思われる。

「私が鳥になるんだ」

最終話、ラッカはレキが作った“壁”を越えた。

それは心理的な拒絶の“壁”だ。

初見では、その言葉の意味を測りかねたが、しばらくして理解できた。

――心の壁を越える。

喪失による悲しみで心が一杯になり、自分を気遣ってくれる他者の存在が見えなくなってしまったラッカの心の壁。

幾度も過ちを犯し、罪を償うための献身も偽善に過ぎないと思い込み、孤独な心の闇を抱え、絶望に心を閉ざしてしまったレキの心の壁。

彼女たちは、“壁”を越える存在により、助けられた。

“助けられる”ことを受け入れた時――赦しが与えられた。

「鳥はさ、忘れ物を運ぶんだって。あたしたちが繭に入った時に忘れちゃった何か」

昔堅気な親方にしごかれているカナ。

二人は良い師弟関係のようだ。

しかし、男の子っぽいカナは大人しいラッカとはあまり相性が良いようには見えない。

焼却炉や時計店の作業場での会話もぎくしゃくしているように見える。

ただ、見晴らし台の上で鳥の話を聞かせてくれたカナにラッカは好感を持ったようだ。

カナは昔のレキに似ているとネムが話していた。

もし、昔のレキとラッカが出会ったとしたら、このような関係になっていたのかもしれない。

第5話

街の外はどうなっているのか。

灰羽とは何なのか。

当然の疑問だが、オールドホームの面々と街の人々は一切の疑問を持たない。

それは満ち足りているようでいて、しかし、どこか違和感を感じさせる。

「いいのかな、私。こんなに幸せで」

世界のはじまり。

どこかで見たような神の存在が語られる。

宗教関係者から見れば、それは聖書の断片であるように見えるのだろう。

(海外の方が書かれた『Set Apart』という考察本が存在する)

「こうして、グリの街は大地でも海でもない場所に、今もぽっかりと浮かんでいるのです」

おそらく、作者の頭の中には明確な設定が存在するのだろう。

しかし、それは劇中ではついに語られることはなかった。

読み手の解釈に委ねる余地をあえて残したのだろう。

この件については、『脚本集』でも明かされていない。

なお、改稿前の脚本では、「グリの街は大地でも海でも空でもない場所に、誰にも知られる事なく、今もぽっかりと浮かんでいるのです」となっている。

映像化の際の尺の問題があったという話だが、こちらの方がやはり意味は通るように思われる。

街の人々と動物たちにお別れの挨拶をするクウ。

それは次回での急転の伏線だった。

第6話

この回で物語は暗転する。

前半の明るい雰囲気は一変し、“鬱展開”と呼んでも良いような暗い雰囲気となる。

『脚本集』では、このクウとの離別をどこに入れるかでスタッフ内で話し合いがあったと記されている。

離別が早過ぎれば、クウや他のメンバーへの感情移入が空疎になる恐れがあり、

離別が遅くなると、その後の展開がシリーズ構成内に入り切らない恐れがあったのだろう。

結果的には、ここしかないタイミングであったように思われる。

ただし、前述のように、もう少しクウのエピソードが欲しかったという印象はある。

「心の中にコップがあるの。

そこに小さな雫が落ちてくるの。毎日ちょっとずつ。

今日、あたしのコップが一杯になったような、そんな気がしたんだ」

「どうしてこの街には壁があるの?」

「たぶん、この街は守られている場所なんだよ。

良くないことの全てから、あるいは、私たちが知るべきではない全てから」

全ての悲しみから守られたはずの街で。しかし、悲しい出来事は起きる。

クウの巣立ち、クラモリの巣立ち、罪憑き――。

日常というものは決して喜びだけではない。

辛い出来事や悲しい出来事を織り交ぜながらも、続いていく生活のことだと思う。

グリの街での日常も人の営みである以上、悲しみからは逃れられないのだろう。

――悲しみから守られた楽園(ユートピア)であるはずの街で、悲しみが生まれる――。

このテーマが作品の根底にあるように思える。

「私はずっと、この街は楽園なのだと思っていた。

でも、皆こんなにも優しく、誰かの為に精一杯、生きているのに、悲しい事は起こる。

呪いを受け、苦しむ者もいる。

灰羽って、何だろう」

クウがいなくなり、落ち着かないラッカと、雨のせいで憂鬱な気分になっているだけだと言う皆とのやり取りがとても自然で、面白く感じる。

クウがいなくなっても、日常は続く――。

決してドラマティックにではなく、あくまで淡々と描く。

淡々と続いてゆく日常性を描くことで、その中に潜む悲しみを透かし模様のように浮かび上がらせる。

このような技法は実写映画の世界で使用されることが多く、アニメ作品では異質であるように思える。

第7話

中盤の山場への導入回。

幸福なはずの物語で、初めて悲しい出来事が起き、そのまま物語は暗闇へと突き進んでゆく。

第5話までが明るく幸福な物語であった分、その闇はより深さを増す。

――羽が黒くなる。

詳しくは罪憑きについてで後述するが、キャラクターの心理状態を分かりやすく視覚化する、優れたアイディアであると思う。

クウがいなくなったのに普通に暮らしている街の人やオールドホームの皆と、憔悴しているラッカとのギャップがリアルで、とても良い演出となっている。

初見の時は、あまり落ち込んでいないように見えるラッカ以外のメンバーが淡白であるように感じた。 それまでの和気藹々とした仲間意識はどこへ行ったのか、と。

しかし、実際にはこちらの方がよりリアルなのかもしれない。

仲間を失った時、悲しまない者はいない。けれど、皆、自分の中にそれを飲み込み、努めて元気を出すようにして、それでも、変わらぬ日常を生きていくのだ。

集団生活とは、実際にはそういうものではないだろうか。

悲しみに押し潰され、自暴自棄になったとして、自分も、誰も幸せにはなれない。

ラッカは皆よりも特に繊細な性格で、だから、心理的に病んでしまったのだろう。

黒く染まった羽を鋏で切り刻むラッカの自傷行為と、それを止めるレキのやり取りは、ひどく真に迫っている。

物語中、最も印象深い場面の一つに挙げても良いだろう。

この物語でしか描けないと感じられる。そして、この場面を描くことができたからこそ、この作品は高い芸術性を獲得できたのだとも思える。

この悲惨な悲劇的場面でも、演出とBGMは抑制的である。

あくまで淡々と描き切ることに終始している。

それが、この作品のリアリティ、臨場感をより高めている。

この場面で、高らかに悲劇的な楽曲を大音量で流したとしたら、分かりやすさは増すと思われるが、ひどく、わざとらしい印象を与えかねないように思える。

第8話

中盤のクライマックス前半。

作画もこれまでとは違い、リアルテイストになっており、憔悴・混乱するラッカの表情や景色の歪みがよく表現されている。

「私、自分がどうして灰羽になったのか分からない。

何も思い出せないままここに来て、何もできないまま、いつか消えてしまうんだとしたら、

私に何の意味があるの」

憔悴しきった様子のラッカ。 オールドホームの皆はあんなに和気藹々と楽しそうにしていたのに、どこか余所余所しい雰囲気になっている。

このような時は、腫れ物に触るように接するしかない――カナが不用意な暴言でラッカを傷付けてしまわないか、冷や冷やとする。

その心配は、古着屋のアベック客により現実のものになった。

古着屋さん、通行人のおじさん、街の人たちは優しい。

けれど、その善意さえ、今のラッカには受け付けない。

それは、まるで、体調が悪い時はどんなに美味しい料理を食べても胃が受け付けず、吐き出してしまうように。

「私なんて、いなくなっちゃえばいいんだ」

――坂道を転がるように、闇の中へと落ちてゆく。

人が心理的に病む時というのは、そういうものではないだろうか。

カラスに導かれて暗い森の中へと入り、古井戸を見つけるくだりは、濃密な不吉さを醸し出しており、ホラー的であると言っても良いだろう。

初見では、何か取り返しのつかない恐ろしい罠の中にラッカが落ちてしまったのではないかとハラハラとした。

第1話での羽の生えるシーンのグロテスクさ、最終話でレキの部屋の壁画を見付けるシーンも恐怖的であり、

この作品は一見、明るく優しい雰囲気の物語であるようでいて、その中身は、グロテスクさやホラーの要素も多分に入っていると言えるだろう。

この、“明るさ、優しさと、グロテスクさ、恐怖感との対比”は、互いを強調させる効果を上げていると思われる。

ラッカが井戸に落ちた時、真っ暗な画面で、音声が流れる。

全くのノーヒントなので、初見でも、二回目でも理解できなかったが、『脚本集』にその意味が書いてあった。

「きゅっ、きゅっ、とリノリウムの床を歩く足音」

「ちん、と鍵を開ける音。ぎぃぃぃぃという重い鉄扉を開ける軋んだ音」

あれは、学校の屋上へと続く非常扉を開ける音だった。

それは、ラッカが学校の屋上から身を投げて自殺したことを示唆する。

――井戸の底へと落ちた時、ラッカは繭の夢の続きを思い出し、夢の本当の意味を知った。

それは、“自分を助けようとしてくれる誰かの存在”だった。

「私、いつも独りぼっちで。自分がいなくなっても、誰も悲しんだりしないって思ってた。

だから、消えてしまいたいって思った。

でも、あなたはそばにいてくれた。鳥になって、壁を越えて。

私が一人じゃなかったんだって、伝えようとしてくれたんだね」

これで、ラッカは罪憑きから解放される。

初見では、なぜ、これで解決となったのかが理解できず、「えっ、ラッカのエピソードはこれで終わりなのか?」という印象があった。しばらくして、理解できた。

――自分を助けようとしてくれる存在に気付く。

これこそが、呪いを解く鍵だったのだろう。

レキの抱えた心の闇も、それにより癒されることになった。

人は心理的に窮地に追い込まれると、あまりに必死で、周囲が見えなくなる。

周囲の人の気遣いに気付けなくなり、益々、自分で自分を追い込む結果となる。

それは不幸へとひた走ることを意味する。

「自分がいなくなっても、誰も悲しまない」

「自分はもう消えてしまえばいい」

これは、自分が自分自身にかけた呪いだ。

自分がかけた呪いは、誰でもなく、自分自身で解くしかない。

――自分を助けようとしてくれる存在に気付き、自分で自分を赦す。

自分で自分を赦すことは、時として難しい。

忌まわしい記憶はいつまでも追い縋り、薄らいではくれない。

グリの街の壁は、忌まわしい記憶から彼女たちを解放したのではないだろうか。

「私は独りぼっちじゃなかった」

忌まわしい記憶から解き放たれ、幸福な記憶に包まれた時――彼女たちは、天国へと旅立てる。

本作のDVD付録の冊子で、作者は自身の体験について、以下のように述べている。

「僕が抱えていた罪悪感の正体を説明するのは難しい。

そこにはただ罪の意識だけがあり、償うべき対象が存在しなかった。

それは僕がただ一言、自身に向けて『赦す』と言えば消えてしまうような、亡霊の如きものに過ぎなかった。

でも僕にはそれができず、影を引きずり、独りでいつまでも同じ場所をぐるぐると回り続けた」

第9話

中盤のクライマックス。

ラッカのエピソードの結末。

降りしきる雪の中、ラッカを探して奔走する仲間たち。

ラッカを見付けたのはトーガだった。

そして、話師に夢の話を打ち明けるラッカ。

初見の時、話師が黒幕ではないかと思っていたが、後にそれは誤りであることが分かった。

話師は厳格な人物であるように感じていたが、実際には灰羽たちのことを誰よりも心配し、見守ってくれていた。灰羽たちの父親のような人物であった。

話師と話をしてはいけないという掟はしばしば破られている。それに対する罰則はないようだ。

その掟は、必要以上に特定の灰羽に感情移入したり、干渉し過ぎないための、言わば自戒のようなものであるようにも思える。

あるいは、修行の一環として、誰とも会話をしてはならない(俗世から隔離される)という掟に従って生活する修行僧もいるという。

話師や連盟員が罪憑きから逃れられなかった灰羽の末路であるとすれば、彼らはそのようなものなのかもしれない。

「私が罪人で、本当はここにいちゃいけないのなら、どこか、私のいるべき場所へ連れて行ってください。

ここは、この街は私には幸せ過ぎます。皆優しくて、誰からも大事にされて、いたたまれないんです」

生前、誰かを傷付けてしまったことを悔やみ、罪悪感を感じるラッカ。

「罪を知る者に罪はない。では汝に問う。汝は罪人なりや」

「おそらくそれが、罪に憑かれるということなのであろう。

罪の在り処を求めて同じ輪の中を回り続け、いつか出口を見失う」

ここで、罪憑きの解説が明確に語られている。

罪憑きとは、罪の輪のことである。

それは、すなわち、罪悪感のことである。

――自分は罪人だ。ここにいてはいけない。優しくされる資格もない。いなくなってしまえばいい。

このような罪の意識は、自分の心身を滅ぼすだけではなく、周囲の人も不幸にする。 誰も幸せにはなれない。

この悪循環から脱出するには、誰かの助けを借りて、自分自身を赦すしかない。

「私、どこにも行きたくない。ここにいて、いいよね」

「もちろん。ラッカは、ここにいていいんだよ」

初見では聞き流したが、このやり取りは重要な意味を持っている。

――自分はここにいても良いのだ。

この意識が、大事なのだ。

自分は罪人だ、ここにいてはいけない、と思い込んでいたラッカが、レキに赦しを請い、そして、赦しを与えられる。

この時、罪の輪、すなわち、罪悪感から抜け出すことができたのだろう。

井戸の底で鳥の亡骸を見付け、夢の続きを思い出したこと、自分を助けようとしてくれる存在に気付いたことが、罪憑きから逃れた理由として説明されている。

しかし、私は、この場面で、レキに赦しを請い、そして、赦しを与えられたことこそが、より重要な意味を持っているように感じている。

この場面が、全体を通して、最終話と並ぶ大きなクライマックスであるように感じる。

ラッカをオールドホームへ連れ帰り、看病するレキは、いつものように優しくて、見ているこちらが泣きたくなる。

それゆえに、最後の台詞が突き刺すような冷徹さをもって響いてくるのだ。

「独りになるのは慣れている」

第10話

冒頭からレキの回想。

最終章の導入のタイミングで回想が入ることで、物語全体がクライマックスへ向けて非常に引き締まることになる。

この手法は他の名作でも実証済みだ。

ラッカが主人公である以上、当然、ラッカのエピソードの結末は最終話に持ってくると思っていた。

しかし、第9話でラッカのエピソードは完結し、レキのエピソードへと物語は転換する。

この物語の構造は、ラッカを主人公としていながらも、中盤で主人公の物語は完結し、もう一人の主役の物語として完結している。

このような構造は、主人公に感情移入しているであろう視聴者に混乱を招きかねないが、この作品に限っては、単純な物語に収まらない、作劇上の深みを与えているように思われる。

レキが幸せだった頃の記憶。

クラモリを失ってから、レキの運命は大きく変わった。

仲間を失ったことの喪失感を乗り越えられなかった灰羽が心理的に病んだ状態を罪憑きとしたのが、脚本の初稿だった。

クウを失った悲しみにより罪憑きとなったラッカ。

そして、クラモリを失った悲しみにより罪憑きから逃れられなくなったレキ。

二人は“喪失感”という共通点を持っている。

ただし、ラッカは、繭の夢の中で“自分を助けようとしてくれる誰かの存在”を思い出し、“喪失感”を埋めることができた。

しかし、レキは7年間、ずっと“喪失感”を抱え続けて生きてきたのだ。

――壁の中。そこは、彼女たちの墓地だった。

石壁の中に埋まった“お札”。

劇中で明示はされていないが、どう見ても“位牌”にしか見えない。

クウの声が漏れ聞こえたことから、位牌の中には彼女たちの魂が存在していると考えることもできる。

ただし、“巣立つ”ことが、“魂が天国へと昇る”ことを意味するのであれば、魂が位牌の中に留まっているというのは矛盾している。

ここで、位牌の上の方に彫られているのは、セフィロトの木(生命の樹)に見える。

生命の樹は天国に生える樹木であり、その実を食べると永遠の命を授かるという。

これは、巣立った灰羽たちが天国で永遠の命を得たことを意味していると解釈することもできる。

なお、『脚本集』によれば、壁の中の水路へと続く通路は、フランスで見学したカタコンベがモチーフになっているということである。

第11話

冒頭のモノローグ。

冬が深まり、ラッカの問題は解決し、しかし、レキは未だ“罪憑きの呪い”に囚われたままであることが語られる。

ここで、ラッカからレキの物語へと主題が変わったことが宣言される。

初見では、第9話でラッカが罪憑きから解放された理由が理解できず、まだラッカの問題を頭の中で引きずっていたが、その理由を自分なりに理解した後は、よりスムーズに主題の転換についていけるようになった。

この“主人公の交代”は、前述のように、視聴者に感情移入の面で混乱を招く恐れがあり、現に、私も多少なりとも混乱が生じた。

この部分は、より慎重に扱う必要はあったのかもしれない。

ただし、テレビ放映時は原則、一週間の思考時間を計算に入れた上でのシリーズ構成であり、一週間毎に視聴する場合はそれほど混乱は生じなかったのかもしれない。

ぜひ、リアルタイムで見たかったものである。(実際には、テレビ局の編成の都合により放送日が変わったそうだが)

廃工場の灰羽たちはワルっぽくて、ネムいわく、“がさつ”だそうだ。

ただ、女の子たちはそれほど意地悪ではないようだし、ヒョウコも子供の面倒を看る一面がある。

本当の意味でのワルというわけではないようである。

「あなたはレキのこと、何も分かってないのよ」

「レキを救うということは、レキに別れを告げるということだ。その覚悟はあるか」

この言葉は、重く響く。

これ以降、ラッカはレキを救う決意を固めていく。

だが、その決意の脆さは最終話に露呈されることになる。

それはとてもリアルだ。

「明日が来なければいいのに。ずっと今日ならいいのに」

「永遠なんて、ありえないよ。何もかもがいつかは終わる。だからいいんだ。

今が今しかないから、この瞬間が、こんなにも大事なんだ」

「ネム、長い間ありがとう。もし、いつかクラモリにあったら伝えて。ごめんなさい、ありがとうって。私はそっちへは行けそうにないから」

終末へと向かって、それぞれの決意と覚悟を固めてゆく。

あくまで丁寧に、日常を描き続けている。

日常とは、辛いことや悲しいことを織り込みながらも、続いてゆく日々のことだ。

彼女たちの決意や覚悟も、日々の日常の中に溶け込んでゆく。

これが、この作品の真骨頂であるように思う。

心地よいだけの物語ではない、痛みを織り込んだ本当の日常。

このような深さを感じさせる作品を、私は他に知らない。

第12話

朝、珍しくだらしない恰好でゲストルームに現れるレキを、ヒカリが見咎める。

これまで、ずっとリーダーシップを発揮してきたレキが、初めて立場が逆転した瞬間だった。

このことは重要な意味を持っているように思える。

過ぎ越しの祭の、鈴の実の市。

ヒョウコとミドリに、5年越しの謝罪をするレキ。

手渡した白い鈴の実は、「ありがとう、さようなら」を意味する。

「祭りは来週だぜ」

「時間がないんだ。もう、会えないかもしれないから」

初見では、スケジュール感がよく分からなかったが、この時、レキは一週間後の祭りの日を待たずに自分が消えてしまうことを予感していた。

すなわち、過ぎ越しの祭の夜が、最終話、最後の夜だったのだ。

「私がレキのためにできることって、何だろう」

ヒョウコとミドリからレキの過去を聞かされたラッカが取った行動は、彼女たちの和解だった。

話師が、諱(本当の名前)について語る。

ラッカは、自分の諱の由来を言い当ててみせた。

それは、自分のことを客観的に理解したことを意味しているように思える。

そして、レキは、未だに自分の真の名を知らない。つまり、自分のことを客観的に理解できていない、という風に解釈することもできる。

レキは外面的にはパーフェクトな存在だ。

誰よりも優しく、物知りで、不満一つこぼさず、家事を引き受け、リーダーシップを取り、仲間たちを良い方向へと導いている。

一家にとって、頼りがいのあるお姉さんであり、お母さんである。

しかし、彼女が独り心の中に深い闇を抱えていることは、誰も知らない。

彼女の抱えた心の闇を癒すことは、誰にもできない。

彼女は外見的には最後まで、優しいお姉さんを演じ切り、そして、誰にも知られず消え去ってしまう。

そのはずだった。

彼女は、自分を過小評価している。

どれほど他者に献身的に尽くそうとも、満たされることはない。

自分自身でそれを評価することができないから。

「己の価値を見失い、自らを小石に喩えて礫と呼んだ」

彼女の陥った自己否定の罠は、全てのコンプレックス(複雑な負の感情)を吐露した後、それでも、自分を肯定してくれる人の存在を得ることで、初めて癒された。

――誰かから、赦される。

それが、必要だったのだと思う。

「もし、私のことを忘れても、この部屋のことは忘れないでほしい」

悲しみの旋律に包まれる中、過ぎ越しの祭――最後の夜が始まる。

それぞれ、お世話になった人に、赤い実を渡していく。

それぞれの日常がそこにある。

だが、レキだけは、暗い食卓に豪華なご馳走を並べ、独りベランダで物思いに耽る。

楽しそうな皆とは裏腹に、独り、孤独の闇に身を浸しているように見える。

ヒョウコとミドリたちがレキに見せた、打ち上げ花火。

その色は黄色――「好きです」。

ミドリがおそらくヒョウコからもらったのは、白い実。

「さようなら、ありがとう」。

いつもの強気な態度に反し、泣き崩れるミドリは年相応の少女らしい。

5年間のわだかまりを捨て、ミドリとレキが抱き合う。和解の瞬間だった。

それを見て、安心した表情を浮かべるラッカ。――しかし、悪夢は終わっていなかった。

「街の壁がこの一年、受け止めてきた全ての人の想いを空に還すの」

人の想いを空に還す。この言葉の意味を推し量るのは難しい。 ただ、私はこの言葉を使っていた作品を一つ知っている。

私の想像を述べるならば、それは、“失われたものへの想い”であるように感じる。

空――すなわち、天国へと昇っていった、大切な人への想い。

亡き人への思慕と悼み、幸福を願う祈り。

そのようなものではないかと感じている。

第13話

過ぎ越しの祭が終わり、レキに最後の時が訪れる。

食べ散らかされたご馳走。寝静まった皆。

「さようなら」

別れを告げ、独り部屋を後にするレキ。

ラッカが気付いて起きなければ、物語は悲劇で幕を閉じただろう。

暗いレキの部屋。

ライターの火を頼りに、勇気を振り絞ってラッカはドアを開ける。

そこで見たものは――レキの世界。心の闇そのものだった。

この辺りは完全にホラー的と言っても良い。

「誰かを信じる度に、必ず裏切られた。だから、いつか、信じるのをやめた。

心を閉ざして親切に振舞えば、皆、私を良い灰羽だと言う。私の心の中は、こんなにも暗く汚れているのに」

「私はただ救いが欲しかったんだ。誰かの役に立っている時だけ、私は自分の罪を忘れることができた。そして、いつか神様が来て、赦しを与えてくれるんじゃないかって、そればかり考えていた」

自己否定と自己嫌悪の言葉を繰り返すレキ。

それは、彼女が彼女自身にかけた呪いだった。

あるいは、この時のレキの言葉は、告解であったと解釈することもできるかもしれない。

自らの抱えてきた罪を包み隠さず、全て曝け出し、赦しを請う。

しかし、ラッカは初め、それを受け止めることができなかった。

暗くおどろおどろしい部屋で、いつも優しかったレキの豹変した姿を見せ付けられ、ラッカは怯え、逃げ出さざるを得なかった。

この時のラッカを責めるのは酷だろう。誰でも同じ状況になれば、逃げざるを得ない。

救いたいと願っていた人に拒絶され、心から信じていた人に裏切られたのだから。

ましてや、ラッカはまだ年若い少女である。

人を救うということは、その人の抱える深い闇をも引き受けることを意味する。

「私の最後の希望を、あなたに託すことを許して」

レキの最後の希望――それは、ラッカが最後まで彼女を信じてくれることだった。

「私が、レキを救う鳥になるんだ」

――そして、少女は鳥になった。

罪憑きについて

――いい灰羽はこの街で幸せに暮らし、時期が来たら壁を越える。

でも、時々、街の祝福を受けられない灰羽も産まれる。

その灰羽は繭の夢を正しく思い出すこともできず、巣立ちの日も訪れない。

祝福を受けられない灰羽にとって、壁は逃げ場を奪う檻になる。

そういう灰羽を、罪憑きという――

――罪を知る者に罪はない。では、汝に問う。汝は罪人なりや――

――おそらくそれが、罪に憑かれるということなのであろう。

罪の在り処を求めて同じ輪の中を回り続け、いつか出口を見失う――

罪憑きは、生前、自殺をした者に現れる、という説が存在する。

確かに、レキは明らかに列車に轢かれた自殺であり、

ラッカは精神的に脆く、自分を助けようとしていた存在に気付けなかったというくだり、そして、『脚本集』の記述から、古井戸に落ちる際の音声が学校の屋上の非常扉であると推測できることから、投身自殺と推測することができる。

また、宗教的に、自殺は罪であり、自殺をした者は天国へ行く資格を失うという説があることにも合致する。

以上のことから、罪憑きは生前の自殺であるとする説には一定の根拠がある。

ただし、以下の理由から、私はその説を留保したい。

『脚本集』第五巻では、改稿前のシナリオが示されており、クウが巣立った直後のラッカのエピソードとして、現在の形とは全く異なる罪憑きの状態が描かれている。

その内容は以下のようになっている。

初稿では、巣立った仲間を失った喪失感を乗り越えられず、心を病んでしまった状態を漠然と“罪憑き”と呼んでいた。

第2~4稿では、ラッカの目の前に“ツミ”という名前の少女が現れ、ラッカに罪悪感を吹き込み翻弄するが、井戸の底でカラスの死骸を発見し、夢の内容を思い出すことで、ラッカは罪憑きから解放され、“ツミ”という名前の少女は一匹の白いイタチのような生き物に変わって死に絶える。

第5稿では、初めて、「羽が黒くなる」というアイディアが出され、それを採用したことで、現在の形になった。なお、その時、レキの過去とクラモリというキャラクターを思い付いたと作者は述べている。

つまり、改稿前のシナリオでは、罪憑きとは、“ツミ”という名前の存在に“憑りつかれて”いる状態のことを指していた。

改稿前の段階では、罪憑きとは、心の病、もしくは、超常現象の類であったと言うこともできるだろう。

罪憑きの概念がこのような変遷を経ていることから、ラッカは後天的に罪憑きとなったのに対し、レキは先天的な罪憑きであることの矛盾もある程度、説明ができる。

改稿前の段階では、あくまで外部の存在の影響による一時的な状態を指すものであったが、「羽が黒くなる」という身体的な特徴を指す概念へと変化させた結果、生まれつきの罪憑きという状態もあり得ることになった。

このように考えることもできるだろう。

『脚本集』から読み取れる意図としては、罪憑きは、自身の“罪の意識に囚われた状態”を、視覚的に分かりやすく表現したものであったと言える。

そこでは、必ずしも生前の自殺は前提とはなっていない。

もちろん、上記の事柄は『脚本集』という作者の見解をベースにしたものであり、視聴者が作品そのものから受ける印象とは別物である。

劇中のラッカとレキの描写から、“罪憑き=生前の自殺の表れ”であるという印象を受けることも自然であると言っても良いだろう。

その意味において、いわゆる自殺説は一つの解釈として成立し得る。

ただし、初期のシナリオでの作者の意図としては、必ずしもそのような事柄を前提とはしていなかったであろうこと。

そして、劇中の話師の台詞において、“罪憑き=罪悪感に囚われた心理状態”であると説明されていることには、留意する必要があると思われる。

巣立ちについて

壁の外へ「巣立つ」と彼女たちは言う。

「旅立つ」ではなく。

「巣立つ」というのは、通常、鳥の成長において用いられる言葉だろう。

詰まる所、彼女たちは“鳥の雛”なのだろうか。

繭を破って産まれ、灰色の羽を生やし、いつか、巣から飛び立つ存在。

それは、鳥になぞらえることができる。

「私が鳥になるんだ」

最終話、ラッカはそう言った。

彼女たちは灰色の羽を持ち、人間でも天使でもない存在として生まれた。

そして、いつか、おそらく、天国へと飛び立ってゆくのだろう。

廃墟となった聖堂のステージで、光の柱に包まれて飛び立つ時、

彼女たちの背中には、おそらく、純白の大きな翼が生えているのではないだろうか。

それは、彼女たちが天使となったことを意味する。

――大きな白鳥のような純白の翼を羽ばたかせ、天国へと昇っていく少女たち――。

そのような光景を想像することもできる。

繭の夢について

「夢の中で誰かが守ってくれた気がして」

古井戸の底で、ラッカは繭の夢を思い出し、自分を助けようとしてくれる存在に気付いたことで、罪憑きから逃れることができた。

そして、オールドホームに連れ帰ってくれたレキに、「ラッカは、ここにいていいんだよ」と、赦しをもらうことで、自己を肯定することができた。

罪憑きとなった灰羽は繭の夢を正しく思い出せないとレキは言った。

それは、繭の夢を正しく思い出せば、罪憑きから逃れることができることを意味しているのだろうか。

ラッカが思い出した夢は、自分を助けようとしてくれる誰かの夢。それは、“良い夢”であったと言えるだろう。

これに対し、レキの夢は紛れもない“悪夢”である。

――赤い月の夜。誰にも助けられず、独りきり、線路の上を歩き続け、そして、列車に轢かれる。

この夢を正しく思い出したところで、罪憑きから逃れられることになるとは思えない。

罪憑きとは、罪悪感に囚われた状態のことである。

ラッカは、誰かが自分を助けようとしてくれる夢を思い出して、罪憑きから逃れることができたが、

レキは、誰にも助けてもらえず死を迎える夢を思い出して、それで、罪憑きから逃れることができるのだろうか。

実際、最終話で話師からの手紙を読んだレキは夢を思い出したが、それにより彼女が救われることはなく、逆に、彼女が消え去ることの引き金となったように見える。

レキが罪憑きから逃れるために必要だったのは、

夢を正しく思い出すことではなく、

誰かに助けてもらうことだったのではないかと思われる。

その役目はクラモリが担ってくれるはずだったが、クラモリは一足先に巣立ってしまった。それが悪夢の始まりだった。

その後、レキがこのような状態になることを知っていたら、クラモリはレキを残して巣立ったりしなかったのではないだろうか。

ラッカの場合は、夢を思い出すことと、誰かに助けてもらうことがイコールであったため、スムーズに解決に至った。

レキの場合は、夢を思い出すことは、自身の絶望をより深めることになるだろう。

レキは何でも一人でこなすことができ、誰かを頼ったりしない。

それは、独りで生きていくための術と言えるだろう。

レキはずっと、夢を思い出すことに執着していたが、それは逆効果であったように思える。

彼女に必要だったのは、“今、そこにいる仲間に助けを求めること”ではなかっただろうか。

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