生贄の巫女

このシナリオは、ティル・ディ・テールお絵描きchannel/till familiaさんの【イラスト配信】オリジナル悪役キャラデザ その3【お絵描き】の配信アーカイブを見て、思いついたシナリオです。




【村長】
「紗枝、今回の巫女はお前だ。わかっているな?」

【紗枝】
「はい、わかっています」

ここ数日、神隠しが相次いだ。
そして昨日の朝、獣に食い散らかされたような女の死体が見つかった。

それは山の神様の仕業だ。
そうなると、巫女という名の生贄を神様にお渡しして、神様の怒りを解いてもらう。

それがこの村の風習だった。

【紗枝】
(今回は私の番……怖くないといいな……痛くないといいな……)

紗枝は次の巫女は自分だとわかっていた。
なぜなら紗枝には両親がいなかったから。
村長に育ててもらえなかったら、死んでいただろう。

何の役にも立たない子供が、ようやく村の役に立つことができる。
紗枝は村の人たちが好きだ。
好きな人たちの役に立てるのなら、それでいい。

【紗枝】
(村長も、村の人たちも、とってもとっても良くしてくれたもの)

10年しか生きていないが、とても幸せだったと紗枝は思う。
怖さはあるけれど逃げたいという気持ちはなかった。

そして夜、巫女服に身を包んだ小夜が、宮司の格好をした村人たちに連れられて山に入る。
子供の紗枝にとってはつらい道のりだ。

それでも紗枝は大人の後を必死でついていった。
朝早くからお昼を過ぎても歩き続ける。
おなかがすいたけれど、そんなことを言える雰囲気ではなかった。

ただひたすら山の中に入っていき、道祖神が不自然に並ぶ場所までたどり着いた。

【村人A】
「私たちが一緒に来られるのはここまでだ。あとはお前ひとりで行くんだ紗枝」

【紗枝】
「はい」

【村人B】
「すまない……」

ついてきた大人たちは4人。
全員がうつむいて、紗枝の顔を見てくれない。
気にすることなど、何もないのに。

紗枝は笑っていった。

【紗枝】
「この村で、皆さんと一緒に暮らせて幸せでした。ありがとうございました」

深々とお辞儀する紗枝に、顔を抑えて涙をこらえる村人もいる。
それでも、全員が紗枝を置いて森を去っていった。

その姿が見えなくなってから、紗枝は再び歩き出す。
道祖神が数多く並んだ場所を超えて、奥へ奥へと。
村長からもらった地図は手にしている。

最悪道に迷ってたとしても、夜に星を見れば方向がわかる。
食料も、村長の奥さんが持たせてくれた。

【紗枝】
「一人でも、神様のもとにたどり着ける」

紗枝はゆっくりと歩きだす。
あったら殺されるのはわかっている。
神様に自ら食べられに行って、神様の怒りを鎮める。

それはこの村で昔から行われてきたこと。
なにもおかしいことではない。
すべては村のみんなのためなのだ。

立派に務めを果たして見せよう。

【紗枝】
「ここが、神様のおうち?」

想像していたのは神社だ。
けれどここは、ただの廃屋。
今すぐ崩れ落ちてもおかしくない場所だ。

村長から巫女だけに渡されるという地図を確認しても、この場所で間違いないはずだ。

戸惑う紗枝の目の端に、動く影が見えた。
紗枝の体が自然に硬直する。

【紗枝】
「……っ!」

【???】
「……また、人間が来たのか」

【紗枝】
「ひっ!」

そういう男は、とても神様とは思えなかった。
体の右側にいくつもの焼けただけれた跡がある。
指は四本しかなく、小指が見当たらない。

そして右目からは炎が噴き出している。
そして何より、頭についている、大きな角。
右側は折れてしまっているが、あれはまるで――。

【紗枝】
「お、鬼……!?」

【???】
「そうだけど、なに? また生贄とかいうやつ?」

【紗枝】
「あ、あ、あ……わた、わたし、は、神様の、贄で……あな、たのじゃ……」

紗枝の体がガタガタと震え、口がうまく回らない。
そんな紗枝を鬼はどうでもよさそうに見ている。

【???】
「ああ、僕、神様だと思われてるみたいね。ここに来る子供にいつも教えてあげてるんだけど、みんな村から逃げるから正しい情報が伝わらない。いいかい?」

鬼はどこから手に入れたのかキセルに深し、いいかい、と説明する。

【???】
「ここに神様はいない。ここにいるのは鬼の僕だけ。そして、神隠しも人さらいも、神様の仕業でも僕の仕業でもない」

【紗枝】
「そ、そんなこと……」

信じられない。

【???】
「君が信じようが信じまいが、真実さ。神隠しや、獣が食い散らかした死体が出るのは、雪解けの季節だろう? やっているのは冬眠明けの熊なんだよ。ただそれだけ」

【紗枝】
「……くま?」

【???】
「そう、熊。母熊が一つの村を覚えたら、その村が襲われ続けるのは不思議なことじゃないよ。この辺りは熊がごろごろいる。今、君は鬼の世界に来ているから熊に襲われる心配ないけれど、境界前にいたはずだ。よく襲われなかったね」

【紗枝】
「そんな、そんなはずは……だって、鬼が……」

【???】
「鬼はすべて人を食うと? 食ってもいいけど、僕は人間が作ったこの吸い物のほうがよほど好きだね」

キセルを見てうっとりと目を細める鬼。
炎も少し弱まるが、目を開ければまた炎が噴き出る。

【???】
「まあ、君も村には戻れないだろうし、今までの子たちのように、違う村で生きていくすべを身に着けるまでここにいるといいよ。みんなそうだったから」

【紗枝】
「生きていく、すべ?」

鬼の言うことは信じてはいけない。
そう思っているのに、その言葉につられてしまった。

ここで死ぬと思っていた。
村のためになると思っていた。

でも、すべてが本当にクマの仕業だというのなら?
紗枝は本当に死ぬ必要があるのだろうか?

【紗枝】
(村のみんなに、これは熊の仕業だって教えないと……)

けれど今更村に戻っても、話などまともに聞いてもらえないだろう。
紗枝は知っている。
以前、神様のもとに行くのを恐れた巫女が途中で逃げ帰った末路を。

そうなるぐらいなら神様に食べられて、村のためになりたかった。

しかし村のためにもなれない。
この鬼が本当に人を食べないというのなら?
ほかの村で生きていけるのか?

本当に?

【???】
「最初に子供が来たときは、すぐに違う村に帰したんだけどね。読み書きもできない、計算もできない子供が一人違う村に行っても、うまく生きることはできなかった」

【紗枝】
「…………」

【???】
「それ以来、ここに来た子供には読み書きと計算を教えているようにしてるんだ。まあ君が嫌というなら、すぐにでもここを出ていけばいいけれど、熊には気を付けてね。冬眠明けでおなかをすかしてるから」

【紗枝】
「……私は、わた、し、は……」

どうしたらいいのだろう?

【???】
「決まらないなら決まるまで、ここにいればいいんだよ。人間が使う布団もあるよ。まあだいぶぺったんこになってしまっているけどね。気に入らないなら新しいのを適当な村から盗んでくるよ」

【紗枝】
「いえっ、いりませんっ!」

盗んだものなど、使えない。

【???】
「そう? まあ好きにすればいいよ。僕は浅葱。君さえよければよろしくね?」

【紗枝】
「私……どうすればいいんでしょう?」

【浅葱】
「それは僕にはわからないよ。君の好きにしたらいい。今すぐ自分の村でも、違う村でも、帰りたいなら連れていくよ」

【紗枝】
「それは……」

知らない村に行っても、紗枝は生きていけない。
元の村に戻っても、きっと生きてはいけない。

けれど、明らかに異形のものと一緒にいるのは怖い。

逡巡する紗枝に、浅葱と名乗る鬼はため息をついた。

【浅葱】
「まあ、好きにすればいいさ。僕はどうでもいいから」

そう言って、廃屋に引っ込んでいく鬼。

【紗枝】
「…………」

【紗枝】
「雨が……これから、どうしたらいいんだろう?」

鬼の住処から離れた大木の下で、紗枝は村長の奥さんが作ってくれたおにぎりを食べていた。
水分の代わりに果物が欲しかったけれど、見つけることができなかった。

喉につかえないようにちまちまとおにぎりを食べる。
村長さんも奥さんも、本当の親のようによくしてくれた。
それでも、戻ることは許されないだろう。

それはみんなにとって、紗枝が村を見捨てたと同義だ。
話をまともに聞いてもらえる可能性も低い。
村に伝わる、逃げ帰った巫女の話からも明らかだ。

【紗枝】
(鬼は怖い。違う村も怖い。元の村には戻れない)

八方ふさがりだった。
雨が体を冷やし、紗枝の思考をどんどん暗くしていく。

村長の奥さんが持たせてくれたおにぎりは、もう食べてしまった。
食料はただこれだけ。
このままだと飢えて死ぬだけだ。

村に役に立てるのなら、死ぬのも怖くないとそう思っていたが。
ここで死んでも紗枝は村の役に立ったことにはならない。

【紗枝】
「寒いよ……怖いよ……」

途方に暮れ、うずくまって膝に顔を埋めて泣いていると、ため息が聞こえた。

【浅葱】
「まったく、こんなところにいて凍死でもするつもりかい? 夜と朝はまだまだ冷えるんだから」

【紗枝】
「鬼……」

【浅葱】
「浅葱だよ。僕は一人だけで邪魔者のいないこの空間が気に入っているんだ。ここに人間の死骸があると景観が悪い。どこにも行くつもりがないなら、僕の住処に来なさい」

そう言って、どこからか盗んできたものなのか傘を紗枝に差し出す。
紗枝はおびえて後ずさろうとしたが、大木が後ろにあるので動けなかった。

浅葱が面倒くさそうに言う。

【浅葱】
「とって食ったりはしないよ。君が死んで僕の住む森が汚れるのが嫌なだけ。それに、君もう食べ物ないんでしょう?」

【紗枝】
「…………」

【浅葱】
「ほら、いくよ」

刺し伸ばされた手を恐る恐る手に取る。

【紗枝】
(……鬼なのに、人間じゃないのに)

四本しかない鬼の手は、村長のように暖かかった。
それだけで、紗枝はほっとして涙があふれた。

翌日、布団で寝ていた紗枝の部屋に、浅葱が無遠慮に入ってきた。

【浅葱】
「ほら紗枝、人間は食事をしないと死ぬんだろう?」

夕べ廃屋につく途中で名乗った名前を憶えていてくれたのか、浅葱が名前を呼んでくれる。
その呼び方が、村長の奥さんを思わせた。

寝過ごしてしまう紗枝に対し、困ったように、眠れてよかったと笑うように。
優しい声だ。

【紗枝】
(鬼は怖いものだと思っていた。そう教わった。でも――違うのかもしれない)

会ってから一度も、浅葱は紗枝に嫌なことをしていない。
紗枝が勝手に怖がっていただけだ。

【紗枝】
「ごはんは、私が作るんですよね」

【浅葱】
「ああ、僕は作り方知らないから。魚はこの辺でとれるし、もう少しあったかくなれば果物もとれる。野菜はそこらで盗んでくるよ」

【紗枝】
「盗むのは、よくないと思いますが……」

【浅葱】
「人間のルールは面倒だねえ。人のものをとるのはよくないことだとわかるよ。それでもそれをしなきゃ自分が死んでしまうと思ったら、そんなルール、鬼の僕には知ったことじゃないね」

【紗枝】
「…………」

浅葱の言うことは間違っているような、でも正しいような、紗枝にはよくわからなかった。
やはり、鬼と人間だから考え方が違うのかもしれない。

【浅葱】
「人間は腹が膨れればそれでいいわけじゃないんだろう? 魚だけ食べても果物だけ食べても体に悪い。野菜も必要だろ?」

【紗枝】
「…………だったら、野菜を盗むのではなく、種とか苗を少しだけください。育てますから」

盗みに加担していることを言うのは胸が痛んだ。
それでも紗枝は村の役に立たずに死ぬことはできない。
村の役に立てないのならば、どこかで生きていたかった。

鬼の考えに影響されてしまったのだろうかと少し怖くなる。
怖くても、生きてたいと思ってしまうのは間違いだろうか?

【浅葱】
「ああいいよ。君が育てられるならね」

【紗枝】
「多分、できます。村長さんの家で手伝っていたから」

村長の奥さんは、読み書きや計算は教えてくれなかったけれど。
料理の仕方は教えてくれた。
紗枝が進んで畑仕事は手伝っていた。

だから、多分大丈夫。

【浅葱】
「じゃあ、後で適当に持ってくるよ。早く料理を作ったら?」

【紗枝】
「はい」

うなずいてから気づく。
紗枝の布団の隣に、着替えが用意されていた。

【紗枝】
「この服は?」

【浅葱】
「今までいた子供たちのものだよ。穴の開いてるものはないはずだから」

【紗枝】
「穴があっても、裁縫道具があればつくろえます」

【浅葱】
「前にもそんなことを言っていた子供がいたな。あるよ、裁縫道具の場所もあとで教えよう」

浅葱が姿を消し、紗枝は着替えを済ませる。
そして料理をする前に、顔を洗い台所に行く。

すると浅葱が待っていた。

【紗枝】
「おはようございます」

【浅葱】
「うん、おはよう」

朝の挨拶がワンテンポずれていても、浅葱は気にしない。
紗枝は用意されている魚を下ろす。

その様子を黙ってみている浅葱。

【紗枝】
「どうかされました?」

【浅葱】
「家が燃えたら困るからね」

【紗枝】
「以前そんなことが?」

【浅葱】
「まあね」

【紗枝】
「あなた……浅葱さまの瞳の炎は大丈夫なんですか?」

【浅葱】
「僕が燃やそうと思わなければ、燃えないよ」

随分と便利な炎だ。

キセルからは変わった煙のにおいがする。
村長もキセルを吸っていたけれど、それとは違うにおい。
使っている歯が違うのだろうかと思いながら、紗枝は魚を焼く。

大根があればよかったのにと思いながら、それをテーブルに並べた。
浅葱はただ黙って、紗枝の目の前に座る。

【紗枝】
「浅葱さまは本当に食べないのですか?」

【浅葱】
「食べても意味ないもの。おいしいとも思わないし。ただ、以前いた子供が一人で食べるのはつまらないと言っていたからね。紗枝が一人でいいなら、席を外すけど」

【紗枝】
「いやでは、ないです……一人は、寂しいですから」

紗枝に両親はいなかった。
生まれてすぐに死んでしまったから。
それでも村長と村長の奥さんがいてくれた。

人のいる環境に慣れた紗枝は、一人には不慣れだった。

【浅葱】
「じゃあここにいるよ。後で野菜の種だか苗だかもらってくるけど。あと、読み書きや計算を勉強するのに半紙も必要だね。今あるのは、黄ばんでボロボロになっちゃってるから」

【紗枝】
「はい」

やはり盗みと聞くと、胸がチクリと痛む。
それでも、浅葱の言う通り自分が生きていくためには目をつぶらないといけないことなのかもしれない。

まだ10歳の紗枝には、そのあたりの割り切りは難しい。

【紗枝】
「浅葱さま。おぐしをととのえてみませんか?」

浅葱と暮らして数日が立つと、浅葱が自分に危害を加えることもないのだと紗枝にはわかっていた。
浅葱に対する恐怖もない。

紗枝のためにと浅葱が用意したくしで、浅葱の長い髪もきれいにしてみたかった。

だが。

【浅葱】
「えぇ?」

露骨にいやそうな顔をする浅葱。
初日なら怖がっていたが、紗枝はもう怖くはなかった。

【紗枝】
「嫌なんですか?」

【浅葱】
「だって、意味ないじゃないか。そんなことしても」

【紗枝】
「意味ならあります。見ていて私が楽しいです。長い御髪がきれいだと、私が楽しいです」

【浅葱】
「別にいいけど……その櫛が角に引っかかったらいやだなあ」

【紗枝】
「痛いんですか?」

【浅葱】
「痛くはないけど、うっとうしい」

【紗枝】
「角には当てないように気を付けますから。さ、こちらにお座りください」

【浅葱】
「仕方ないなあ」

嫌さそうな顔をしたまま、浅葱は素直に紗枝の前に座る。
座ってくれたのがうれしくて、紗枝は楽しく浅葱の髪を梳いていく。

髪を梳いた浅葱はいつもより綺麗に見えて、紗枝の顔がなぜか赤くなり、心臓がどきどきした。

【紗枝】
「…………」

紗枝はそろばんの前で固まっていた。
これも盗んできたものなのであろう、そろばんの使い方を書いた本を読んでもわからない。

読み書きは先に教わっていたはずなのに、数の数え方もわかっているのに。

簡単な計算がそろばんだとできない。

【浅葱】
「どうした?」

浅葱がしゃがみ込んで、紗枝の顔を後ろからのぞき込んでくる。
紗枝の体が固まる。
浅葱は怖くないのに、近づかれるとどうしていいかわからない。

【紗枝】
「そろばんが、よくわからなくて。この上の玉の使い方が……」

【浅葱】
「ああ、そこでつまづく子供は今までもいたな。そろばんで数えられるのは……」

浅葱がそろばんをはじきながら説明してくれる。
その声が耳元にかかる。
紗枝の髪の毛と浅葱の髪の毛がさらさらと混ざり合う。

ただそれだけのことなのに、なぜかひどく緊張する。

【浅葱】
「こうやって数えるんだ。わかった?」

【紗枝】
「――っ! はい、ありがとうございます」

【浅葱】
「お前がほかの村で生きていくための方法だ。今までの子供たちも頑張ったんだ。よく学ぶんだよ」

そう言って浅葱は離れていく。

さっきまで緊張して早く離れてほしいと思っていたのに、離れられると寂しい。

それに、浅葱の言葉が少しだけ寂しい。

【紗枝】
(ほかの子供……私もいつか、そう呼ばれるのかしら)

浅葱は紗枝のことを名前で呼ぶが、今まで来ていたらしい子供の名前を呼ぶことはない。

紗枝がほかの村で生活できるようになったら、また生贄の巫女が来たら紗枝のこともほかの子供たちと同じく「今までの子供」になってしまうのだろうか。

それが、なぜだかとてもさみしく感じた。

――紗枝が浅葱と暮らし、5回目の春を迎えた。
紗枝は浅葱との暮らしが気に入っており、ほかの村で暮らすことなど考えられなくなっていた。

ずっとここにいたい。
ここで読み書きの勉強をして、計算の勉強をして、浅葱とずっと暮らしていたかった。

浅葱はやっぱり鬼だから、紗枝とは根本的なところで考え方が違う。
それでも、浅葱は紗枝によくしてくれている。

【紗枝】
「……浅葱さま、もう夕食の時間なのにどうしていないのかしら?」

いつもなら紗枝が料理を始めると、そこで火事にならないか見ていてくれる。
そして料理を運んで一緒に食べてくれるのに。

今日は一日姿を見せない。
たまにこういう日があった。

初めてこういう一日を体験したときは、二度と戻ってこないのではと不安になっていた。
今は必ず戻ってきてくれると知っている。

今日もきっともうすぐ戻ってくる。

【紗枝】
(……でも、一日の最後くらい一緒にご飯を食べたい。読み書きを覚えて計算もできる私は、きっともう浅葱様にそろそろ出ていったらと言われてしまう。だから、少しでも長く一緒にいたい)

紗枝は外に出て、浅葱の姿を探す。
浅葱はものぐさだから、基本外には出たがらない。

そんな浅葱だから、そんな遠くに入っていないかもしれない。

紗枝が最初に来た年に作った畑を通り越し、森の中を歩いていく。

夕暮れの赤い光の中で、浅葱の姿を探す。

【紗枝】
「浅葱さま? どちらにいらっしゃるのですか?」

名前を呼びながらしばらく歩いていると、浅葱の姿が見えた。

【紗枝】
「あさ――!?」

浅葱の名を呼ぶ前に、紗枝はその場に崩れ落ちた。

浅葱は、大人の女の体を捕まえて、首筋にかじりついていた。
女の体が力なく崩れ落ちる。

【紗枝】
(なによこれ? どういうことなの? 浅葱さまが、人を――?)

どうしてどうしてどうして。

同じ言葉が頭をぐるぐるとめぐる。

浅葱が紗枝の姿を見つけ、血まみれの手で面倒くさそうに髪をかき上げる。

【浅葱】
「あーあー、見られちゃったか。せっかくお前もいい具合に、熟れていたのに……先にお前を食べておくべきだったねえ、失敗したよ」

どこか苛立たし気な浅葱の口元は、血で真っ赤に染まっている。
ぎざぎざの歯も、舌も。

違う、そんなはずはない。
紗枝は自分に言い聞かせる。

【紗枝】
「あの、人を食うのは熊ですよね?」

【浅葱】
「まあ熊も人を食うけど、大体の熊は人間に退治されちゃうねえ。継続して食べられるのは、僕ぐらいかな?」

浅葱が小首をかしげて笑う。

【紗枝】
「な、なんで……だって、私は、今までなんとも……」

がくがくと震えながら紗枝が問う。
息がうまくできない。

浅葱を怖いと思ったのは、最初にあった時以来だ。
いや、その時よりももっと怖い。
だって浅葱は優しいのだと、そう思っていたから。

【浅葱】
「僕がお前の村で神だと間違われてるのは知ってたよ。都合がいいからそのままにしておいた。人食い鬼のもとに、ご丁寧に定期的に人間を運んでくれる」

浅葱が喉の奥で笑う。

【浅葱】
「だから、腹が減ったら定期的に、わざと死体を食い荒らすのさ。それが目印になって、うまそうな子ブタを運んでくれる」

【紗枝】
「こ、ぶた……?」

浅葱がにたりと笑う。
口が耳元まで引き裂かれるようなその笑顔は、紗枝の気に入っているものだった。

今では恐ろしくて仕方ない。

【浅葱】
「負の感情に満ちた人間の肉は硬くてうまくないんだよ。この女も、祝言を控えて幸せを感じていた女だ。柔らかくて甘い。来たばかりのお前は、恐怖に震えてお世辞にもうまそうではなかった」

【浅葱】
「最近のお前は、ほかの村で人間らしく暮らせると思っていたせいか、どんどんうまそうになっていった」

それは違う。
浅葱と一緒にいられるのが嬉しかったからだ。
ほかの村に行くことなど考えたくないほど幸せだったからだ。

【浅葱】
「お前が幸せいっぱいで、廃屋を去ろうとしたその時に食べようと思っていたんだよ。でもその前に我慢できなくなってしまってね、少しつまみ食いをしてしまった」

まさかお前にみられるとはね、失敗したよ。

いつもと同じ口調と笑顔で答える浅葱。
紗枝の目から涙があふれた。

【紗枝】
「浅葱さまのこと、信じていたのに……」

大好きだった。
ずっとここで暮らしたいと思うぐらい浅葱のことが大事だった。

だというのに。

【紗枝】
(私は……浅葱さまの食べ物でしかなかった? ずっと食べ物として見られていたというの?)

恐怖と悲しみで頭が混乱する。
親のように慕っていた。
親代わりの村長たちより大事な存在になっていた。

それなのに、浅葱にとって紗枝は食べ物以外の何物でもなかった。

涙が邪魔で瞬きをする。
それに合わせたように、涙がぴたりと止まった。

【浅葱】
「へぇ」

浅葱がそんな紗枝を面白そうに笑う。

【浅葱】
「お前が鬼になるとはね、予想外だよ」

【紗枝】
「……え?」

紗枝は驚く。
涙で頬に張り付いた髪を振り払う。

【紗枝】
「なに、これ……」

髪を振り払う手の指が、四本しかなかった。
慌てて頭に触れる。

【紗枝】
「……っ!!」

慌てて頭に触れると、そこには浅葱が持つつのと同じ硬く鋭い感触。

【紗枝】
「ど、どうして……っ」

浅葱がどこまでも楽しそうに笑う。

【浅葱】
「人間が絶望に叩き落されると鬼になるんだよ。お前はもう食事にはならないね」

そう言って、浅葱は女の体から腕をもぎ取り、紗枝の口元に差し出す。

紗枝は気持ちが悪くなると思った。
しかし、血の匂いに心地よさを覚えた。
今まで食べたどんなおいしいものよりも、かぐわしい香り。

それが、口元の腕からしているのだ。

紗枝はあらがうことすらできずに、女の腕をかみちぎる。

【紗枝】
「…………」

今まで食べたどんな食べ物よりもおいしかった。
その事実が悲しい。
それでも、食べることをやめられない。

だって、こんなにも甘い。
柔らかくておいしい。
こんなにおいしい肉は、今まで食べたことがなかった。

唾液とともに女の腕を飲み込み、あっという間に食べ終わる。
ぎざぎざの歯は、女の腕の骨さえあっさりとかみ砕いた。

【紗枝】
(どうして、こんなことになったの……? 私はただ――)

幸せになりたかっただけだ。
浅葱と二人で穏やかに暮らしていたかっただけ。
なのに、なぜか鬼になり、人を食べている。

泣きたいほどつらいのに、涙は出ない。

【浅葱】
「お前はよく泣いてうるさい子供だったけど、これで静かになるかな。鬼は泣くことはないから」

だからか。
鬼になったと同時に涙が止まったのか。

【浅葱】
「僕も鬼と暮らすのは初めてだよ。ここにいるといい。お前は僕より人の気持ちがわかるから、ここに来る食料にもっと親切にできるだろう?」

浅葱は楽しそうにこれからのことを話し出す。
絶望している紗枝にはお構いなしで。

【浅葱】
「熟したうまい肉を分けてあげるから、お前はずっとここに住むんだ。そして人間にやさしくして、うまい肉を作るんだよ」

冗談じゃないと、そう言いたかった。
このまま走り去ってしまいたかった。

けれど、それはできなかった。
だって自分は知ってしまった。

人間の肉の味を。
甘くて口の中にとろけるような甘い肉を。
またあの肉を食べられる。

【紗枝】
「はい。わかりました、浅葱さま」

心は絶望にあえぎながらも、紗枝は気づけばそう返事をしていた。
そして浅葱に「帰るよ」と言われて後をついていく。

紗枝はもう人間ではなく、まぎれもなく鬼そのものであった。

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