掌編「影魚」 (2022.4)
一つ不思議な思い出があるんだ。
それは寝苦しい夜だった。三日月はとうに稜線の向こうへ消えていた。山の端は半ば夜空と溶け合いながら町を抱いていた。埃臭くなっていた実家の自室を抜け出して僕は散歩に出た。暗い街路には人一人居なかった。
街灯の下で時計を見た。午前二時四十五分…カーブミラーの丸い影が僕の隣に黒々とわだかまっていた。
再び歩き出そうとしたとき、「ねえ、お散歩?」と、澄んだ声が肩越しに僕を呼び止めた。気がつくと高校生らしき黒髪の少女が僕の隣に立っていた。見ず知らずの少女に話しかけられ立ち尽くす僕を、彼女も少し驚いたように見つめた。彼女は街路に目を遣った。
「とりあえず歩こうよ。」
彼女が何者かもわからないまま、僕達は並んで歩いた。彼女が細い脚を踏み出す度に、ローファーが硬い音をたてた。彼女はセーラー服に包まれた華奢な背中をぐっと反らして、「空気ってこんなに美味しかったっけ。」と、晩夏の夜風を嬉しそうに吸い込んだ。
「よく歩いてるの?」
僕はなんとなく話しかけた。
「たまにね。」
「一人で?」
「いつも一人だよ。」
「危なくないの。」
「誰にも見えやしないもん。」
この暗がりでならそうかもしれない。僕も小さい頃は闇に紛れて遊んだものだった。
たまに歩くと言うとおり、彼女の歩きぶりは慣れたものだった。住宅地を真っ直ぐに行って、行く手を遮る山に沿って歩いて行く。舗装された坂道をゆっくりと登っていって、小高い丘から町を眺めた。
「ここはずっと田舎だよねぇ。」
懐かしむような、悲しむような口ぶりで彼女は呟いた。
「変わらないなぁ。僕の居た頃から。」
「だよね。」
歩き出した彼女を追って僕は坂道を下りた。
「また息苦しい場所に帰らなくちゃ。」と、そう言って彼女が眺める先には、林道が黒洞洞と口を広げていた。峠を攻めるエンジン音が遠く響いた。
家が近づいてきて、行きと同じような街灯の下で、彼女の名前を尋ねた。彼女は睫毛をそっと伏せた。「黒部透子、って…覚えてないかな…」
彼女の立ち姿と発せられた名前が一瞬の間に僕の記憶のドアノブをくすぐった。丘の上でふとよぎった、少女の共感への違和感が脳裏に残っていた。その違和感が頭の中で像を結ぶより前に、彼女はふらりと背中から倒れ込んだ。あっ、と手を伸ばす隙もなく、彼女は真っ逆様にカーブミラーの丸い影に沈んでいった。
虫の聲がぱたりと止んだ。
僕は足下の丸い闇に視線を縫い付けられていた。アスファルトのはずのその平面が質量を失って、ぽっかりと穴の空いたように見えた。
彼女は七年前に失踪した。少し恥ずかしそうに自己紹介する姿と、一日だけのクラスメイトと言われるようになったことをはっきりと思い出した。
彼女は闇の中へ消えていった。ちょうど七年前の事件の真相と同じく。ただきっと、それは単なる刑事事件ではなかったのだろう。彼女が転校して来た次の日に、彼女の家から穴が空いたように彼女だけが消えた。幾度の捜査でも見つからなかったそのピースは七年前の姿のまま僕の前に転がり出て、そのままカーブミラーの丸い影へ消えた。
それからだ。夜の闇が、深い影が、何処までも深い世界の裏側で繋がっているような気がするのは。真暗な林道の先に不可侵の境界線を幻視するのは。
…ところで、月も無い今夜、この蠟燭を消したら…僕達は何処へ行ってしまうのだろう?………なんてね。