卒業とスタート
卒業式が終わった。
会場を出て初めて見た空は、冬の日らしい澄み切ったものだった。まるで自分の今の気持ちとリンクしているかのような錯覚を起こしてしまうほど、外の空気は清々しかった。
「ふぅ……漸く、全部終わった」
解放された気分を押し殺しながら、呟きをため息と共に吐き出す。
そう、終わったのだ。
大学生活四年の集大成が、今日、この日を以て完成したのである。やるべき事をやって、為すべき事を為した。
だと言うのに、なんだろう。この空虚感は。
「……ダメだダメだ。この後にも色々準備しなきゃいけない事があるんだ」
気をしっかり持て、と弱音を吐いた自分を正すようにペチペチ頬を叩き、僕はイヤホンを耳に入れて音楽をかける。
すぐにさわやかで心地よい音が、疲れ切った頭に流れ込んでくる。
歌い出したくなる衝動を誤魔化しながら、僕は駅へと歩き出そうとした。すると、いきなり肩を組まされ、歌い始めたイヤホンが取られた。
「よっ! タクミ、お疲れ様!」
親しき中にも礼儀ありという言葉を理解していないような馴れ馴れしすぎる声と行動。僕はこの人物を嫌という程知っている。
「……行男、お前いきなりこんな事するのは失礼だって分かってるか? びっくりしたんだけど」
「あははは、悪い悪い。漸く大学生活が終わったなーっていうこの晴れやかな気持ちをお前と一緒に味わいたくて」
「全く……」
呆れるようにため息を吐くも、当の行夫は自分の気持ちを押し殺す事なくウキウキとした表情である。
「あ、そうそう。タクミは試験どうだった?」
「あー……まぁ……ぼちぼちだと思うよ。家帰ったら自己採点するけど、そんな悪い点は取ってない筈だし」
「そうかー、やっぱりおまえすげぇなぁ。俺バカだからさー自信ないのよなー」
にこやかな表情から一転してどんよりと見えてもいない先の事を考えて勝手にネガティブになる行男。笑ったり泣いたり、本当に忙しい奴である。
「大丈夫だよ。行男だって、試験の為にちゃんと勉強したんでしょ? なら問題ないって」
「そうかなぁ……」
「それに、今から落ちた事を考えても仕方ないでしょ、もう終わったんだからさ、楽しい事考えたら?」
この一言を聞いた行男は、「それもそうだよな!」といつもの調子を取り戻し、「何して遊ぼっかな〜」と遊びの計画を立て始めた。何処までも呑気な奴である。
「まぁ、俺の事はいいとして……だよ」
「さっきまで元気付けられてた奴が言う事じゃない」
「いや、それもそうだけどさぁ……お前、就職先どうするんだよ」
「…………」
僕は何も言えなくなって、再びイヤホンを耳に入れて音楽をかける。丁度一曲目が終わって、僕が一番好きな曲が流れ始めた所だった。
「おい、そうやって話を終わらそうとするんじゃねぇよ。お前の悪い癖だぞ?」
「うるさい、放っておいてくれ。僕の事は僕が決める」
ひょいと勝手知ったる様子で片方のイヤホンを取りながら覗き込む行男に対し、僕は突き放すように言った。だが、行男の方は引く気はないのか更に詰め寄って来る。
「だってよぉ、みんな就職先決まってるって言うのにさ、お前だけじゃん、決まってないの。友達として心配だから言ってるんだぜ?」
「余計なお世話だよ。僕なりに探してるところだから、変な心配しないでくれ」
「まぁ……お前がそう言うんなら俺はなんも言わねぇけどさ……あ、じゃあこれだけは教えてくれよ」
──お前の夢は一体何?
行男の言葉が歌詞と重なり合ったのは、きっと偶然だと思う。そうでないなら……こんな風に動揺して、黙る事なんてない筈だから。
「……ほら、黙ったまんまって事は、そういう事なんじゃないの?」
「う、うるさい……ぎゃ、逆にお前は夢があるって言うのかよ」
「俺? 俺はそうだなぁ……」
負け惜しみのように聞き返すと、行男は少し考えた後、こう答えた。
「……俺がさ、前々から子どもの事やりたいって言ってたのは知ってるよな」
「うん、それは知ってる。だから児童養護施設に行ったんだろ?」
「そうそう。あれ、俺が子ども好きって事もあるんだけど……子ども達の力になりたいなって思ってさ」
考えを纏めるようにゆっくりと、行男は僕に答えていく。
「俺、馬鹿だからさぁ、難しい事なんて何一つ分かんねぇけど、親がいないって事がどれだけ辛いかは、何となく分かるんだ。それで、そんな子ども達の拠り所になれたらいいなって思って、色々調べたら児童養護施設が一番やりたい事に近かった。だから決めたんだ、今は無理だけど、経験を沢山積んで、いつか全ての子どものお父さんみたいな感じで守ってやるって。それが俺の……今の夢かな」
ちょっとだけ偉そうな感じがするけどな。と、行男は鼻を擦りながら笑う。普段のやんちゃで明るい性格からは考えつかない、だけど聞いたら妙に納得が行く、行男の夢。
その答えに、僕は静かに愕然とした。
「……キツそうだなって思った事はないの?」
「そりゃ、キツイ事もあるだろ。色んな子ども達を守るんだから。でもほら、俺は行男って名前だろ? 夢に向かって真っ直ぐ『行く男』だから、そんなもん楽勝で乗り越えられるさ」
へへへと照れ臭そうに笑う行男が、とても眩しく見えた。そして、今の自分がとても小さく、惨めに思えてきた。
だから、僕は「……そうか」と一言だけ残して、足早に行男と別れようとした。
「おい! 俺を置いて行くなよ! 一緒に帰ろうぜー!」
「うるさい! 今日は一人で帰るつもりなんだ!」
そう言い捨てると、僕は今度こそ外されないようにイヤホンをぎゅっと耳の奥に押し付け、逃げるように駅に向かった。
丁度、好きな曲が全部終わった後であった。
◆
「……はぁ」
もうすっかり日が沈んだ公園。
その片隅のベンチで、僕は溜め息を吐く。
あのままアイツと帰れるわけがない。あのまま帰ったら、僕は自己嫌悪で潰されてしまう。そうでなくても、有る事無い事、自分の醜くて嫌な面を行夫にだけは見せたくなかった。
「……くそっ、アイツ、自分で自分の事馬鹿だった言いやがって……」
正直、行夫が羨ましかった。
自分だけの夢を持ち、それをしっかりと実現出来る力を持ちながら、決して驕らず自分を馬鹿だと言ってのける。
楽天的な性格で、みんなから慕われる存在。それが行夫だ。
片や僕はどうだろう。
行夫と違って何もない僕は……
「……帰るか……ん?」
漸く落ち着いたタイミングで帰ろうとしたその時だった。
何処からか声が聞こえる。
それも一人だけじゃない。聞こえる限りでも7、8人は聞こえてくる。
何よりそれ以上に大きな音で流れてくる音楽は、イヤでも耳に張り付いてくる。
近所迷惑にも程があると思いながら顔を上げると、向こう側のベンチに大勢の人がたむろしていた。
高校生から大学生くらいのその集団は、その殆どが男であり、だぼだぼのパーカーにジーンズという典型的なストリート系の服装をしていた。皆一様に派手な髪色をして、円陣になって何やら盛り上がっている。
時折ウェーイなどと想像通りの声を上げる連中に、僕は露骨に嫌悪感を顔に出しながら帰途に就いた。
一抹の、羨ましいなという思いを心のどこかに抱えながら。