放蕩のすすめ
先日この記事を読んで、自分でもちょっとした贅沢を試みてみた。やってみると悪くない気がした。
そして、この記事から連想して、どの記事だったか忘れたけど、高須賀さんが欲望は育てる必要がある、と書いていたように記憶している。何というか訓練としてこういうのが必要なのではないかと思ってきた。そして、今日ふと以前に読んだ本について思い出した。
いまになって振り返ると、ぼく自身30代後半からはひたすら学問から離れる一方だった。何一つまとまった仕事をする気になれなかった。目を瞠るような快楽にとりまかれていながら、なぜそれを見ないようにしなければいけないのか。ずっとそう思っていた。アルコール、にぎやかな会話、他愛ない遊び、笑い、美しい女たち、挨拶がわりの接吻、媚薬、一瞬のうちに大金を得る快感、それらこそ人生のすべてではないか。
植島啓司『生きるチカラ』
バルザックは、「放蕩もひとつの芸術である」と書いたあとで、以下のように続けている。「その神秘をとらえ、その美をあじわおうと思えば、ひとはいわば入念な研究にいそしまなければならない。あらゆる学問がそうであるよう放蕩もはじめはとっつきにくく、困難をともなう。巨大な障害が人間のおおきな快楽をとり固んでいる」。ちょっとした小遣い銭を欲しがったり、まんまと女をだまして身体を奪ったり、わずかな酒で酔いつぶれたりするのでは、まったく遊ぶ意味がない。それならば、まだまともに生きたほうがましだ。自分の命をすり減らすような「賭け」をしてこそ、ほかの凡庸な人間たちには味わえない境地をさまよえるのだ。
植島啓司『生きるチカラ』
これを読んだのは30代になったころだと思うけど、放蕩なんで私の柄じゃないけど面白いなぁと思っていた。でも、今日改めてこの文章を読み返すと、違った感想を持った。
放蕩したいというわけではないのは相変わらずだけど、一回限りの生を味わい尽くすべきだと思った。逆に、物事を外注したり、お金でリスク回避をするにしたがって、そういうものから離れるんじゃないかとも思った。ツアー旅行よりバックパッカーの旅行といった感じか。
ただ、うまく言葉にできないけど、DIYを推奨しているわけではない。普通に生活して、よしとされることだけをやっていると縮こまっていくような気がする。子どもが大人になる際は自然と環境も変わり、できることも増えるけど、大人になって、仕事や家庭を持つと環境が固定し、新しい欲望が発達していかない。自分のことだけど、お気楽にNetflixやKindleで暇をつぶして、Twitterでつぶやいている。
手元にある欲望や快楽は慣れや疲れで縮小再生産されて、エネルギーが枯渇していく。大きな快楽や欲望を満たすために、そこから抜け出さないといけない。