自己紹介(かざいむ)
私は広島県の新興住宅地で父親待望の初めての男児として生まれました。といっても、私は長男でなく、双子の兄がおり、次男です。紅白歌合戦の最中に生まれたらしく、毎年紅白見ながらそろそろ生まれた時間だねと言いながら年越しそばと誕生ケーキを食べてました。
小さなころから内向的で、運動もそんなに得意ではなかったので、小学校の頃は本ばかり読んでました。小学校の図書室の読みたい本を全部読んで、達成感を味わってました。そのころ好きだったのはずっこけ三人組やアルセーヌ・ルパンを読んでたように思います。小学校のころは週1回金曜の午後にスイミングと土曜の夜に剣道を習っていて、土曜のアニメが見れないのが残念だったけどしぶしぶ通ってました。そして、小学校5年生の時に、以前から肝臓を患っていた父が亡くなります。ただ、父は残業が多かったので不在がちで、この時はそれほどショックを受けませんでした。
中学校になって、サッカー部に入ります。でも何となく入ったのであまりやる気はなく、相変わらず目立たない存在でした。中学になって行動範囲が広がり、本屋でジュラシックパークを手に取りむさぼるように読んだ覚えがあります。高校受験もあまり考えず、塾に通い、受験前にいやになり退会する者のなんとか合格。
高校では以前の剣道の知り合いに誘われて剣道部に半年近く在籍しましたが、これも退部。取り立てて変化のない生活をしていましたが、高校2年のの夏休みに県の取り組みでオーストラリアにホームステイするプログラムに参加しました。それまでなんとも思っていなかったのですが、学校で案内が配られ、なんか面白そうと思って参加しました。結構準備がしっかりしていて、事前に授業後にほかの高校から参加した高校生と英会話の練習とかをしてからオーストラリアに向かいました。
オーストラリアでは、最初はうまくしゃべれなかったものの、ホストファミリーの男の子もとてもやさしく、だんだんと英語が喋れるようになったのはとてもうれしかったです。それまでは英語はどちらかというと苦手で、高校も理系クラスだったのですが、英語が使うものと分かって、一気に好きになりました。
その後、外国語や心理学に興味を持ち、私立文系を受けますが、心理学は受からず、名古屋の大学で英語を専攻することになります。これは自分では結構不本意な結果で、仮面浪人しようと思ってました。でも、英語は勉強しようと思って、英会話サークルESSに入ります。これが予想外に楽しく、夏休みが終わるころには友人もでき、そのまま大学で勉強することにしました。
大学4年になって世界の平和を考える、と国際関係のゼミに入り、昔からの妙な倫理感から営利企業はなんかいやという妙な偏見と、仕事ができる気がしなかったので、消極的に大学院を目指すことにしました。そんなだったので、うまく決まらず大学は1年留年。
そして、翌年に同じ名古屋の別の大学の院で社会学専攻で入学。とはいえここでもろくに芽が出ませんでした。大学院の授業はとても面白かったけど、研究なんてどうしたらいいかわからないし、そんなに興味があるものがなかったからです。
大学院も1年留年し、就職活動でいろいろと受けましたが、まぁ受からず、中堅IT企業に拾ってもらいました。やめちゃいましたが本当に今でも感謝しています。
26歳新卒のぼくは、ITの素質が全くなく、1-2年目はいやいや仕事してました。資格もなかなか取れなくて、ほんとなんでIT選んだんだろうと思ってました。いろいろな案件に入れてもらって3年目あたりでようやく何となくわかってきて、それからは仕事外でも多少は勉強するようになりました。
6年目が過ぎたあたりで、調子に乗ってもっといいところ転職しようと思いました(今考えるとあさはかだったし、他に選択肢もあったと思います)。転職にあたって、国際協力がもう一度頭に浮かんで、IT、国際協力をキーワードに今の会社に転職しました。ちょうどこのタイミングで仕事関係で知り合った女性と結婚しました。
転職してしばらくして、長男が生まれました。ただ、転職前からこの業界で仕事するなら、青年海外協力隊に参加したほうがいいと言われ、しばらくして青年海外協力隊に応募します。応募が決まった後で、妻の第二子妊娠がわかります。色々とありましたが結局は単身で青年海外協力隊に参加。ラオス国立大学工学部IT学科に派遣されます。
ラオス国立大学では、大学生を対象にプログラミングの授業を持たせてもらい、試行錯誤しながら教えました。それ以外にも日本企業の協力でアイデアソンとかのイベントも開催しました。でも、セキュリティのワークショップは全然学生が来ずに一回で打ち切りにしました。協力隊の活動はうまく行ったことも、行かなかったこともありますが本当にいい経験になって、今の考え方の基礎になってます。
2年間の活動を終え、日本に戻ると子どもたちが熱烈歓迎で出迎えてくれました。帰る前には下の子はパパと言うと(オンライン通話で使った)パソコンを指していたのでようやくリアルで対面できました。日本に戻ってからは川崎に単身赴任して、前職の会社のプロジェクトに参加させてもらいシステム開発のお仕事をしてました。小さなプロジェクトでしたが、リーダーの人が色々とやらせてくれたし、若手もやる気があって、このときちゃんとプログラミングに取り組んでたように思います。
一年ちょっと経ったところでITのからむ国際協力のプロジェクトのポストに応募して、再度ラオスにもどってくることになります。今度は自分でコードを書くよりは相手組織のITリテラシーの向上、業務の改善をするという役回りで、それとともに簡潔な会計も担当しています。家族もラオスに来て、ようやく家族で一緒に暮らせるようになりました。途中コロナで日本に退避もありましたが、無事にラオスに再赴任できました。
一年半くらい前からベテランがプロジェクトに参加して経験からのアドバイスを色々としてくださり、日々勉強になってます。