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岩を壊そうとする人が理解できない
こんにちは、カザバヤシです。
本日は「一般的に言われる努力というものが、あまりにも役者すぎるよね」って話をしていきます。
僕も含めて人類は基本的に全知全能ではないんですよね。
特化したことがあっても、すべての産業、すべての場面において万能な人はいないんで、だからこそ社会はコミュニティを形成して生きているんだと思うんですが、
要するに僕らは「できないことがある」ということです。
しかし、今回話したい「できないこと」と言うのは、今言ったような特殊能力が使えないとかいう話じゃなくて、
多くの人はできるんだけど自分はそれが苦手、あるいはできない。という意味での「できないこと」だと受け取ってもらって話を進めます。
例えば、朝起きれない。
この社会は、不遇にも朝型の人に有利にできてしまっているわけで
義務教育なんて朝の8時ごろには着席していなくてはいけないんですね。
これって、「朝起きれない」(できないこと)って人にとっては超難易度高いゲームなんですよね。
こういう、いわゆる夜型みたいな人がまず考えるのって
・「朝起きれる方法」を考える
・「これであなたもショートスリーパー」的な本を読み漁る
こんな感じで、「人は朝起きることが普通」という考えを参照点とし、それよりも下回っている自分を自責して、変えようと行動するんです。
要するに「できないことをできるようにする」んです。
今の話では「起きる」という普遍的な内容だったのでわかりにくいかもしれませんが、大きく見た時、「技術」とはこうして生まれてきたものであり、本来持ち合わせていない能力を開花させてきたのが歴史だと思います。
こんなプラットフォームを作りたいと考えた時
自分にはコーディングの知識も経験も無いから…思うと多くの人は
プログラミング学習に励みますよね。
こうして生まれ得るのがエンジニアであり、「できないことをできるように」した人たちです。
一見すると素晴らしい響きですよね。
僕はそういう人たちを侮蔑も嘲笑もしないですし、すごい人だなと感じさせられます。
世間では、そのような人は「努力家」と呼ばれ、称賛されるかもしれません。
しかし、本当にそれは「努力」なのでしょうか。
ここからが今回の最も重要な部分なのですが、
「できないことをできるようにする」よりも
「できないことをやらなくて済む方法」を考える方が合理的だなと思ってしまっています。
(ほんと嫌な奴ですよね)
なぜなら、「できないことをできるようにする」というのは、最終手段だからです。
どういうことか、もっと掘り下げていきます。
僕らは、「できないことをやらなくて済む方法」を考え、
工夫を凝らす必要があるんですね。
こうしたらやらなくて済むかもしれない。その分こっちにリソースを割けるかもしれない。とか工夫するのが本来やるべきことなんですよね。
その上で、やるべきことをすべてやり尽くした末に、
「もう無理だ、これ以上思考を繰り広げても、やらなくて済む方法が無いよ」となり始めて「できるようにするしかない」に行き着くんですよ。
あるいは、できるようにした方がむしろ早いかもとなって、ようやく行き着くフェーズなんですね。
隊員「隊長!こっちに敵軍の頭らしき人物を確認しました、指示をお願いします!」
隊長「コードZだぁ!!」
隊員「隊長!それって奥の手じゃないですか!まだ頭と確信したわけじゃないんで一旦…ッ」
隊長「かまわん撃てぇえええい!」
ってなってるようなもんなんですね。
まずは、そのらしき人物の特定とか、敵軍が隠しているかもしれない兵器とかを懸念して動くべきじゃないですか。
初手で奥の手使っちゃったら…って思うかもしれませんが
多くの「努力家」がやってるのってこういうことなんですよ。
つまるところ、世間で「努力家」と呼ばれる人々の多くは、
実は「工夫を怠ったという点で、最も怠け者」なんですよね。
※また、本記事の末には『Gemini先生の言及』もありますので最後までお楽しみください。
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