電車内での意外な申し出
咲良はJR三ノ宮駅に停車する新快速大阪行きの車内で出発を待っていた。2人掛けシートの窓際に本を読みながら1人で座っていると
「大阪にはこちらの電車とあちらの電車、どちらが早く着きますか?」
と尋ねられた。声がする方へ顔を向けると、初老の上品そうな紳士が腰をかがめてニコニコと咲良の方を向いて咲良の返事を待っていた。
「こちらの電車が先に着きます。」
と答えると
「こちら、失礼してもよろしいですか?」
と聞かれたので
「どうぞ。」
と答え、咲良はまた本に目を戻した。
暫くして電車が発車する頃
「素敵な爪ですね。」
と紳士が咲良に言った。普段、ピアノを弾く咲良はいつもは爪を短く切り揃えているが、この日は友達に会うこともあり自分でデザインした、付け爪を着けていた。紳士ぐらいの年代の男性が爪を褒めてくれる事が咲良にとっては意外だった。見たところ、紳士は素敵な帽子にジャケット、ネクタイをしていて、とてもスマートでお洒落な感じだった。きっと普段から身なりに気を使っているお洒落な方なのかもしれない。と思った。
「ありがとうございます!」
とにこやかに答える咲良に、紳士は更に話しかけた。ぐいぐいくるわけでもなく、とても落ち着いた穏やかなトーンの口調に咲良は嫌な気はしなかった。紳士の選ぶ会話の内容も不快に思う要素は全くなく、穏やかに楽しい会話が繰り広げられた。
暫く会話を楽しんでいると、唐突に紳士は息子の話をし始めた。
「僕にはね、30になる息子がいるんですが。僕は早く息子に結婚をしてほしいんです。でも、全然結婚をする気配が無い。」
咲良はなんと言っていいか分からず、はいと相槌を打つに留めた。束の間の沈黙の後、紳士が突如、休日の昼下がりに電車の席がたまたま隣り合っただけの人たちの会話には全くもって不釣り合いな一言を放った。
「もし良ければ息子の嫁になってもらえませんか?」
全く想像をしていなかった会話の展開に咲良は面喰った。私のどこに嫁要素があったんだろう?こんな会ってすぐの得体も知れない私と義家族になろうなんて、ちょっと危機感無さすぎない?絶対後悔すると思うけど。ー意思がはっきりしていて、思った事は口にするタイプの咲良だが、見た目が大人しそうに見えるらしく、デートをした日本人男性数人に最初のデートの会話の途中で「そんな人だと思わなかった。」と言われた経験がある。ー
「いやー、でも。息子さん、既にお相手いらっしゃるんじゃないですかね?」
と返してみた。
「うーん。そんな素振りは全くないんだけど。」
「でも、きっと息子さんは素敵な方を自分で見つけられると思いますよ。」
と数年前、無理矢理お見合いをされた際に祖母に言った言葉と同じような事を紳士にも言った。
紳士は咲良が暗にノーと言っていることを察してくれたのだろう。それ以上は追及しなかった。代わりに
「今から駅前のグランヴィアで息子と食事をするのだけど、一緒にどうですか?」
と食事に誘った。
突然、息子の前に嫁候補で登場(おまけに、父が電車で出会ったばかりの。)したら、100%嫌われる要素しかないのでは。と思いつつ
「お誘いいただきありがとうございます。せっかくなのですが、友人とランチの予定がありますので。」
と丁重に断った。すごく上品な紳士に見えるけれど、なかなかアグレッシブな方だなぁと咲良は思った。それとも、年代なのだろうか?数年前に祖母からお見合いを持ち掛けられた時に咲良は色々と理由をつけて断ったのだが、祖母に先方に断りを入れてもらった翌日に、祖母の友達でお見合い相手のおばあさんとその孫のお見合い相手は突然、咲良がいる祖母の家に押しかけてきたのだ。
そろそろ双方の目的地の大阪駅へ電車が到着する頃だった。紳士が咲良に名刺を手渡し
「何かあれば、こちらにご連絡下さい。今日はお話ができて良かった。楽しい一時を過ごせました。ありがとう。」
と言った。
「こちらこそ、ありがとうございます。私も楽しかったです。息子さんとのお食事楽しんで下さい。それではお元気で。」
と返し、それぞれに電車を降りて別れた。
翌週の月曜日に、咲良は会社で先輩に名刺を見せながらその日あった事を話した。
「咲良ちゃん、その会社調べた?」
と聞かれたので
「調べてないです。」
と答えたら、その場で検索する事になった。
大阪に数社支店を持つ中小企業の社長である事が判明した。
普段であれば、連絡先を頂戴した相手にメールや手紙等で改めて御礼を伝える咲良だが、この名刺にはメールアドレスは載っておらず、会社に手紙を出すのも憚られたので、改めての御礼を伝える事はしなかった。
咲良は自分という人間の難しさを良く分かっているので、出会って30分も経たないうちに息子の嫁にスカウトしようとした紳士はすごい勇気ある行動を一生かけてしようとした事に、すごい人もいるもんだなぁ。と感心した。
そして、その約15年後に、紳士の様な無謀とも言える勇気ある行動をする人は、その紳士だけではなかったことを知ることになる。