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「愛すべきお父さん」ホンダと中村良夫さん。~クルマとエンジニアの物語

ホンダテクノロジーの礎を築いた中村良夫さんは1994年12月3日、急性腎不全で永眠。享年76歳であった。亡くなられて、今年でちょうど30年が経過した。

大好きな中村良夫さん
エンジニア人生としての物語を書いてみた。最後までご覧いただければ幸いです。

中村さんは、1964年のRA270から始まった一連のホンダF1を設計し、同時にホンダF1チームの監督として、2度の日の丸を揚げた。

また、あのホンダSシリーズやユニークな軽トラックT360を生み出した男でもあるのだ。

中村良夫さんは、いわゆるサラリーマンエンジニアではなく、創業社長である本田宗一郎さんの意見にさえ、必要とあらば反発を持さぬ異端児でもあった。

生来の素直で何をも包み隠さぬ性格と、常に周囲の人々に敬意を払う真摯な態度。あふれるばかりのユーモアのセンス。モータースポーツと自動車の世界で、「ナカさん」あるいはお父さんを知る者は多いはずだ。

1988年からは国際自動車技術会の会長という要職に就かれ、多忙を極めながらも、車に関するありとあらゆることを我々のために書き綴ってくれたのであった。

中村さんの生いたちは大正7年9月8日、山口県下関市に医院の長男として生まれる。

父は翌8年、33歳の若さで他界。一家は山口へ移る。模型作りと映画に没頭した少年時代。

旧制高校時代には水泳部でインターハイにも出場するほどのスポーツマンであった。

そして昭和15年、東京帝国大学工学部航空学科へ入学する。

特に航空機エンジンを広く学び、第二次大戦さなかの昭和17年9月卒業。いったんは中島飛行機に入社するも、兵役で陸軍へ入隊。航空技師中尉として、戦闘機エンジンの設計に従事する。

復員後の昭和24年、くろがねこと日本内燃機製造に入社。オート3輪やバイクの開発を手がけた。

そして昭和33年、本田技研に入社。早速、50CCバイクの名車、スーパーカブの自動クラッチをものにしてしまう。

いよいよ、待望の四輪車開発に着手した中村氏は、空冷V型4気筒360CC、フロントドライブのA320を試作。走行テストを繰り返したが、フロントドライブに関して社長である本田宗一郎に強く反対された。

続いて、直列4気筒・後輪駆動の2シータースポーツA330を開発する。この330こそが、後のホンダスポーツに発展するのである。

小林正太郎氏のフォトアルバムより出典

4輪車生産を目指すホンダは、海外のセダンやスポーツカーを購入して研究する一方で、ついにF1参戦を決意。

本田宗一郎氏は中村氏に、1.5リッターV12気筒エンジンの開発を指示する。エンジンを仕上げた中村氏は、シャシー探しのため、コーリンチャップマンとロータスシャシーの交渉に入るが、最後になって不成立となってしまった。

時間的制約に悩ませながら、中村氏はやむなく自前のシャシー制作に取りかかることになる。

そうして、オールホンダ製のRA271は、64年のドイツグランプリにデビューを果たしたのであった。

そして翌65年、RA272は、ついにメキシコグランプリで記念すべき初優勝を飾った。

小林正太郎氏のフォトアルバムより出典

F1活動休止後、N360やシビックCVCCエンジンの開発をも手がけた中村氏は1977年、常務取締役から特別顧問に退いた。

その後もモータースポーツ界ばかりでなく、世界各国の自動車関連機関と積極的に交流を続け、日本の自動車界全体の発展に大いに寄与するところとなる。

サーキットにも足しげく通われ、ドライバーやチームオーナーばかりでなく、メカニックとの交流も欠かさないユニークなジャーナリストとして活躍された。後進たちへはレースに関するあらゆる事柄を熱心にアドバイスされていたという。

中村さんは、飛行機少年だった頃の夢を生涯持ち続け、青空に舞い上がる飛行機に憧れ、東大工学部に入学した。「青年」中村良夫は大戦中も、航空機エンジン一筋に研究開発を続けていた。

しかし、戦後「つばさ」を失った中村さんの心の中に育ったのは、まだ外国の雑誌でしか見たことのないモータースポーツであった。

陸軍時代、トラックの運転免許証しか持たない中村さんは、自らレーシングドライバーになるなど、夢にもしなかったけれど、勝てるクルマを設計して走らせることなら、エンジニアとして「不可能」ではないと思えたからだという。

水泳では、オリンピックに勝ちたかったという果たすことのできなかった夢を、本田宗一郎氏と出会い、エンジニアとして「技術」を持ってグランプリの舞台で果たすことになった。

その夢は見事に花開いて、実現したのである。

エンドレスなお父さんは、仕事を愛し、家族を愛し、友人を、車もエンジンも、そして日本を愛してきた。

日本の自動車産業とモータースポーツ黎明期に、先進国ヨーロッパで日本の技術をアピールすることに全てを捧げた1人のエンジニアは、未熟な我々をどう思っているのだろうか。

令和になった今、日本の車は、バイクは、モータースポーツをどう進化させていくべきなのだろうか。

お父さんはきっと、「わかっておりませんなあ」と、我々の疑問を一笑するに違いない。

私達はかけがえのない日本男児、愛すべき頑固オヤジを失ってしまったように思う。

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中村良夫氏みずから鈴鹿サーキットをドライブする映像が存在する。
創業者である本田宗一郎氏さん、藤沢武夫さんも登場する。「もっとも難しいことからチャレンジする」宗一郎氏の思想を原動力としてホンダF-1プロジェクトは進んでいったのである。

▼出展
本田技研工業株式会社webサイト:小林 彰太郎氏アルバムから


ジョン サーティースと中村良夫さん



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