「書く」と「読む」のすてきな関係
普段からnoteを書いていると、noteを読むときの気持ちが変わる。
すごく力がこもっている文章だ。
いまの自分に必要な出会いだった。
とても大変だったんだろうな。
自分がnoteを書かなくても読む文章の言語的な意味は変わらない。けれど自分がnoteを書くから味わえる感覚がある。それはとても言葉にしにくくて、身体で理解されることだ。
体験して初めてわかることがこの世にはたくさんある。文章を書く楽しさもその一つだろう。
表現したいことが、表現できない。
伝えたいことが、うまく伝わらない。
ある日突然、書くことができなくなる。
似たようなことは書くこと以外でも、スポーツやビジネスでも起きる。それらの悔しい体験は身体性が高く、やったことがないとわからないことばかりだ。
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うまい文章が書きたいわけじゃない。その手前にある感受性を知りたいんだ。
心を震わせたいわけじゃない。震えた人のその先の人生が見たいんだ。
美しい文章に出会いたいわけじゃない。文章の先にいる人に出会いたいんだ。
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よく書きよく読む人の周りには、たくさんの良い循環が生まれる。
書く人は、読む人の気持ちがわかる。だから良い読み手になれる。たくさん読むうちに魂のある良い書き手をみつける。発見した良い書き手を思わず誰かに届けてしまう。
すばらしい文章に触れた人は、読む人になる。たくさんの文章を読むと、つい書きたくなる。自分の中から湧き出る言葉を書く人は、良い書き手になる。
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文章を書いたり読んだりすることに終わりはない。あるのは循環だけだ。誰かからはじまったバトンを受け取っては次の人に渡していく。手から手に渡るバトンは輝いていく。
自分がそんなすてきな良い循環の中にいられたらきっと楽しい。noteの街の中にはそんな良い循環がすでにたくさんあって、これからも良い循環が生まれていく。
そんな未来が想像できることは、とても幸せなことだ。
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最後まで読んでいただきありがとうございます。