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2024年11月3日

10月28日(月)

16時半のチャイムが聞こえる。

10月29日(火)

早起きして箱根まで船越桂の展示を観に行く。

『手のある裸婦』に完全なバランスを見る。顔が二重に描かれたデッサンに惹かれる、人の多重性を表しているようだ。彫像でもデッサンでもよくみると、顔に左右差がある。スフィンクスの顔をよくみると、男性とも女性とも見える。現実のモチーフを通過して美しさに昇華されている。広い肩幅の筋肉質な男性的な体に乳房があり、性別を越境した人間を生み出している。肩から山が生えていたり青い体の上を船が進んだり、人間の造形と人間よりも大きなものとを融和させている、滑らかに美しく。人間の存在の大きさ、可能性、確かさのようなものを表現しているように感じる。大理石の瞳は、光を反射する角度で見ると、潤んで見える。とても美しい。

自分がよいと感じる作品は、自由を含む。人間の造形の中に、人ではないものを、より多くの、より大きなものを描く、それができるんだと伝えられている気がした。

私が書くものの中に、自由はあるか。私の生き方に、自由はあるか。深く現実を捉える力と技術と覚悟と、それでもなお逸脱し超越し表現しようとする姿勢とそれを貫く体力と私の見ている世界を表現する勇気、それらがあるか。絵を見つめる数分、数十分、その集中力の源には、みつめる先に何かがあるのかもしれないと予感する希望がある。その力を、自分に、自分の書くものに向けられているか。まだそこまで至れていない。芸術空間には、人間の奥行きを引き出す力とシステムがある。斜め下から見る顔の輪郭と瞳は恐ろしいほどの美しさがあった。

友人が欲しがっていたポストカードを買い、帰路に着く。

10月30日(水)

周りから見た時に愚かだと思われる(そもそも周りがどう感じているかは究極的にはわからないが)選択でも、当人にとって意味があるならば、やろうとすること自体に意味があるだろう。

雨が降った翌日の川がたぷたぷと水面を揺らす。好き。

10月31日(木)

ねむいから目がしぱしぱするのかと思ったが、花粉のせいかもしれない。外を歩くたび、涙が頬を伝う秋。

死ぬのはよくない、のようなどこか聞いた価値観をそのまま採用することに不自由を感じる。あらゆることの問い直しの自由を求める、別に結論や内容が変わらなくてもよい。問いの形で自分の中に保持し答えることが大切。

家具を磨きすぎて指の関節が筋肉痛。

11月1日(金)

良い暮らしとは、わたしの合わせてちょうどよいもの。他の誰かが決めた美しさや楽しさではなく、わたしが感じることを中心にした生活、わたしから始まる世界と調和した活動。

わたしをひ弱なやつだと思うな。わたしを守るべき存在だと思うな。いや、思ってもいいが、その気持ちをこちらに向けるな。それはお前のエゴだ、静かにしまえ。こちらの形を変えようとするな。こちらのために想うな。お前の独善に気づけ。真に善なる行為などないことを知れ。お前の為すことはすべてお前のエゴだ。その前提に立てないなら、こちらに近寄るな。わたしはわたしのエゴで発言する。こちらを変えようと意図する限り、わたしはお前を拒絶する。この言葉はお前を傷つけるための言葉だ。お前が傷に気づけない限り、わたしとお前の距離が縮まることはない。お前が近づいても私が離れるからだ。お前が努力することは勝手だが、努力すれば必ず上手くいくものではない。わたしの言葉も努力の一つだが、これは善なる行為ではないと自覚する。それでも自らの美学のためにこれを為す。お前のためではない、世界のためでもない、わたしのためですらない。この行為によってわたしは疲弊し傷つくこともある。わたしが善だと思うもののために、わたしが美しいと感じるもののために、これを為す。

初恋の悪魔、おもしろくていっぱいみた、ねむい。

11月2日(土)

わたしはリミナルスペースがつくりたいのかもしれないと気づく。

わたしがわたしのための文章を書かなくなった時、それは誰かのための文章になるのだろう。

11月3日(日)

朝に、昼に、夕に、夜に、空に、山に、川に、水に、概念たちに新しい意味の布を被せる。これから先の人生でそれを見るたびに思い起こすような長い意味を記憶する。

11時11分、混み合う電車の中、隣の席にカップルと思われる二人組の片割れが座る。座った女性は立っている男性の腹部を小さく殴る。殴ったあとにさする、また殴る。繰り返す。その半径50cmは、二人の世界。

こんな気持ちの良い陽気の日には、ビールでも飲んで昼寝しなければ。

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ひらやま
最後まで読んでいただきありがとうございます。