6日後にnote休むひらやま
誕生日を祝ってもらうことが苦手でした。
たいした者ではない自分なんかが祝ってもらうことに、なんとも言えない感覚になったり、うまく喜べなかったりしました。
こうやって喜ぶといいかな
楽しそうな笑顔はこんな感じかな
相手は笑ってくれているかな
自分よりも相手や周りの反応が気になってしまい、素直に自分のことを思えませんでした。自分自身を認めるために他人の承認など必要ないのに、ついつい誰かからの承認を求めてしまっていました。
自分の気持ちが自分で一番よくわからないことがずっと前からあって、何かをお祝いしてもらうのが苦手でした。
なんとなくこうしておけばいいかな
というのを察するのは比較的上手でした。我慢するのも得意でした。自分の気持ちを理解するよりも、相手や周りに喜んでもう方が大切だよなと、思っていました。
相手の反応に自分の評価を依存することは、とても楽なんですよね。
察することが得意だと思っている自分にとって、自分より相手の反応の方がわかりやすいし、根本的な自己否定にはつながりにくかったのです。薄い膜みたいなもの通して、世界を感じている感覚でした。
長くその状態でいると、段々とその膜が厚くなっていって、膜の外のことに対する感受性が下がっていってしまうような気がしまう。自分の場合はそうでした。
分厚くなってしまった膜を、自分一人で切り開くことは難しいんですよね。
そもそも自分が無意識的に欲して生まれた自分を守るための膜だから、自分からは怖くて外すことができません。どうしても誰かの助けが必要なんだと思います。
どうしてそんな怖がっているの
いいんだよ、あなたの気持ちを感じても
そう言ってくれた大切な人がいます。僕はその人に膜を取ってもらえた気がします。
相手の可能性を心から信じて、支えながら自分一人で立つこと応援してくれる。ときには今までの自分を根本的に揺らすよ問いをくれる、裏表のない誠実な気持ちで。
その人からもらった暖かい気持ちのおかげで、ぼくはいま毎日を楽しく過ごせています。
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先日、cotreeひらやまを囲む会というものを開かせもらったとき、少し早め誕生日祝いをしてもらいました。
ずっと感想を書きたかったのですが、なかなか整理が出きていませんでした。ただこのnote書きながら、改めて気づくことできました。
本当に嬉しかったんですよね。
仲良しの人や前職の同期、その日はじめて会った人も、みんな面白がりながら、自分の誕生日を祝ってくれていました。
正直、お祝い歌が始まったとき、自分だと気づけなくて、「誰か誕生日いるのかな」と完全に他人事でしたw 完全にサプライズでケーキとパーカーまでもらってしまい、本当に嬉しかったです。
自分の気持ちも表情も、とても自然だったように思います。純粋に嬉しく心からお礼を伝え、純粋に楽しくてたくさん笑って。
すてきな偶然をくれるのは、いつだって自分ではない誰かなんだよな。
そんなことを考えて、自分の周りにいる人たちを、いままで以上に大切にしていきたいと、改めて思いました。企画してくれた人、参加してくれた人、本当にありがとうございました。
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あ、実は今日、1月25日が誕生日なんです。また一つ、無事に歳を取ることができました。なんの変哲もない一日ですが、この世に生まれてきた大切な日でもあります。大切な人と過ごそうと思います。みなさんも良い一日を。
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