自分の感受性を守る。凛として爽やかな言葉。
人と向き合うことは簡単なことではない。とてもとても、難しい。相手への気持ちを通して自分のあり方を問われる。
自分の気持ちは相手に伝わってしまい、相手の気持ちを自分は感じてしまう。どんな言葉を口にするかよりも、どんな風に考え感じているかが大切。
事実は変えられないけど、解釈は変えられる、感じ方は変えられる。そんなことを考えていたら、茨木のり子さんの「自分の感受性くらい」という詩を思い出した。
心の潤いを保つ
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
心は、きっとメンテナンスをしないとパサパサになってしまうのだろう。
そして、それを環境や周りの人のせいにしてしまう、自分だけでコントロールできることが多すぎて。
自分で決めることができるのは、自分のあり方くらい。自分の基本の土壌と状況を理解して、自分に合った水をあげたい。
しなやかである
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
関わる人が増えるほど、親密さの層が重なるほど、人の気持ちは複雑になる。
利害が増え、誇りが増え、守るものが増える。自分なりに確かなものが増え、哲学や倫理ができ、妥協が難しくなる。
ただ、絶対的な善はないように、正しさは人の数だけあるのだろう。自分と他人が圧倒的に違う存在ということを認め、応えてゆく姿勢を忘れたくない。
苛立たない
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
「上手くやる」ということが美徳とされがち。自分の気持ちも行動も殺して、あらゆることが円滑に進むことに苦心する。
近しい人にほど、苛立ちを感じてしまうのかもしれない。期待して信じているからこそ、下手であることを受け入れることができない。
上手くても、下手でもいい。その人がその人足り得るのに、何かの上手下手など関係ないのだから。
初心と志を消さない
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった
心はころころ移り変わるもの。それは日常や暮らしのせいではなく、基本的な性質なんだろう。
移り変わりを常として、大きな志を持ちたい。不確実性を許容できる広い器が欲しい。
ひよわさを嘆く必要はない。変化を受け入れ、初心を思い出しながら、新たな志を見つければいいだけ。
尊厳を放棄しない
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分にできることは、細やかな抵抗。
世界への反逆。小さな意思を守るための大きな決断。流されない意思。つき従わない勇気。
些細な気持ちの変化と違和感を捉えなければいけない。ではないと、自分の人生は、誰かの人生になってしまうから。
人が、人足り得るには、自分自身への尊厳が必要。自分の気持ちへの責任と愛を持ってほしい。
感受性を守る
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
誰もが楽しく活き活きと働きたいと思っているはず。ただ、すれ違ってしまうだけ。その小さなすれ違いを積み重ねてはいけない。
自分の感受性を
守らなければいけない。
すり減らしてはいけない。
見過ごしてはいけない。
感受性を投げ出しそうになったら、自分で自分を叱ってほしい。自分を甘やかすだけがやさしさではない。ときには厳しい言葉をかけることも必要。
言葉には生き方が表れる
言葉には生き方が表れるような気がする。
茨木のり子さんの言葉は、凛として爽やかだ。きっと茨木さんの人としてのあり方も、凛として爽やかなのだろう。
自分の言葉はどんなものか。言葉を通して考えること、感じることはどんなものか。読む人はどんな気持ちになるのか。
言葉のあり方を決めることが、人としてのあり方を決めるような気がする。一つ一つの文章を、一つ一つの言葉に、生き方を込めていきたい。
*
TOP画像は、沖縄・波照間島。海に続く道は自分をどこかに連れて行ってくれそうな気がする。美しい景色を美しい言葉で語らるようになりたい。
最後まで読んでいただきありがとうございます。