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1996年からの私〜第16回(05年)2つのヘッドハンティング

少し話が前後しましたが、2004年の挫折から立ち直らんとした2005年に話を戻しましょう。編集次長として、現場のエースとして、この頃は充実期だったと言っていいでしょう。この年、3月のNOAH武道館大会での小橋建太vs力皇猛のGHC戦の試合リポート「変わること、変わらないこと」は、週プロ在籍時の私のベスト原稿だったと思っています。

ただ、仕事が安定していたぶん、週プロでの活動は正直あまり記憶がない1年です。二度にわたるNOAHのヨーロッパ取材、前年のリベンジに成功した東京ドーム大会など、大きな出来事もあったのですが、大きな失敗もなければ、それほど大きな成果をあげたわけでもない、そんな日々だったのかもしれません。

そんななか、この年は他社から二度ほど転職のお誘いを受けました。ヘッドハンティングというやつです。知人を介して話がきて、一社目は広告関係でコピーライターとしての仕事、二社目はBBMよりも大きな出版社からのお誘いでした。

どちらも話をくれた方はプロレスファン、週プロ読者で、私の仕事ぶりを高く評価してくれていました。広告関係のほうは、私が中カラー企画で作る扉ページに着目してくれていて、その想像力や試合リポートにつけるコピーなどの力を広告で発揮してほしいとのこと。

とくに中カラー企画の一つとしてスタートし、一冊の本にもなった「闘撮」への評価が高く、「『とうさつ』という写真集と聞いたとき、とんでもないことをすると思ったら漢字を見てやられたと思いました」と笑っていました。また、その際の週プロでの宣伝ページでつけた「売れない本をつくりました」というコピーに釣られて買ってしまったとも言っていました。

一方の出版社は純粋に編集の即戦力としての評価。これも中カラー企画を毎週一人で考えているバイタリティがほしいという評価でした。

当然どちらも給料はアップ。30歳を目前に控えていた頃であり、転職してステップアップを考える時期でもあります。しかし、当時の私はBBMからの評価も高く、毎年のベースアップも大きく、金銭面での不満はありませんでした。もちろん、給料はより多くもらえるに越したことはありませんが、私のプライオリティは金銭面よりも、モチベーションです。せっかくのお誘いでしたが、充実期にあった週プロでの仕事以上に、別の仕事でバリバリやる気を出している自分が想像できなかったというのが本音です。

結局、どちらも丁重にお断りさせていただき、週プロでの仕事を継続していくことになります。モチベーションという部分にプラスして、自分の中では編集長をやらずして別の場所に行くことは、中途半端な気がしていたという思いもあります。

仕事に限らずなんでも同じだと思いますが、何かを始めたなら、自分で決めた一つのゴールにたどり着かないとダメだと思っています。自分で決めたゴールなら、誰でも必ずたどり着くことができます。ゴールにたどり着くことなく中途半端な状態で投げ出すと、それがクセになります。「できなくてもいいや」と考えるようになってしまうのです。だから絶対に中途半端なことはしない。それが自分の中のルールです。

この考え方は親になって、子供が習い事をするときにもルール化していました。中途半端な状態でやめるなら最初からやらない。やったなら、たとえば1級まで取る、発表会まで頑張るなど、自分で決めたゴールまでやりきる。別にすごくなる必要はないけど、最低限、自分との約束は守らせるようにしてきました。

話が逸れてしまいました。エースとして安定した働きをしていた2005年。平穏な日々は長くは続きません。翌2006年は週プロに一大転機が訪れることになるのでした。

つづく


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