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ジーントドライブ 愛は足りてる?

近頃、とても穏やかだ。
ジーンはあまり怒らなくなった。いや、全然怒らない。
それは、私に対しての諦めかもしれないけれど、そうでもないように思われる。

結婚当初は、すぐにイライラして噛みつかれた。負けず嫌いの私も反論した。論点がズレてズレて、喧嘩にもならない言い争いをしていたように思う。ただ、大きな声を出して。そんな日が一か月に一度はあったかもしれない。このうまくいかない空気は私の月に一度のホルモンバランスの変動によるものだと言い聞かせていた。ジーンもイライラしていたが、私だってイライラしていたのだ。こんなに気持ちが伝わらない人となぜ結婚してしまったのかと、毎夜毎夜月を見ては悲しくなった。
ジーンの機嫌を損ねないようにハラハラしてすごしたり、時に大爆発したりした。でも、それも疲れてしまう。怒るのには相当のエネルギーを要するからだ。
「結婚前には両目を大きく開いて見よ。結婚してからは片目を閉じよ」とか言うけれど、片目を閉じて時々両目も閉じた。両目を閉じたら自分自身のことが見えた。もっと冷静に客観的に奥の方を見てみよう。
ジーンの怒りの原因はなんだろうか?そのことをずっと考えるようになった。耳に届くジーンの声は実に奥からは程遠い表面的な事。もっと奥にある薄暗い湿った空気の漂うもの。
ジーンのイライラは私に向けてのモノではなく、親に対してのモノだと感じた。ジーンには母親の愛情が足りていなかった。私は母ではないが母はいる。母親は良くも悪くも一番に、そしてものすごく影響を受ける存在である。母という生き物、全ての人に母性や愛情が備わっているとは、残念ながら限らない。それを彼女と出かけるたびに痛感した。彼女には悪気はない。ただ、自分が一番の人なのだ。言葉も優しい。だが、全く響いてこない。どこかで聞いたことのあるフレーズで、こういう時にはこれを言うべきという定義に基づいてい話しているだけのように思われた。いつも愛されていたいお姫様のような人なのだ。子供にはたまったものではない。無条件に愛情を注いでいてほしい時期が誰にだってある。その愛情が歪んでいたとしても子を想う愛情なら、いつか大人になった時に子供は自力で理解する。たとえ離れていても愛情は届く。極端に言えば、それが誰の愛情であっても構わない。愛情って誰にだって必要な生きる糧である。
松浦弥太郎氏が何かのエッセイで綴っていた。
「人はしてもらったようにしか人へすることができない。」
自分に置き換えてみてもそうだ。人からしてもらって嬉しかったことを人へかえす。無条件に愛情の引き出しをたくさん作れるはずだったのに、ジーンには引き出しが少なかった。大人になったら、何かに愛情を注がなければ自分は愛されない。

一緒になったのが運の尽き…。覚悟を決めて無条件に愛しましょう。
ジーンからの愛情は期待しない。そう思ってから楽になった。

あれから随分時間がすぎた。ジーンの愛情の引き出しは少し増えただろうか?そんなことも考えなくなったけれど、穏やかに過ごせていることがいい。

愛は地球を救う!って本当かもしれない(笑)

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