肩書き
もう、かれこれ10年以上前。打合せに向かう途中、一旦停止を見逃し、見ていたおまわりさんに止められた。
(全く…。打ち合わせに遅れちゃう。しかも、交番すぐそこ。ツイてないな。)
名前とか住所とか、一連の流れに沿って手続きがなされる中。若い駆け出しの警察官に聞かれた。
「職業は?」
「・・・・・」
(これだよ。私の職業って何…?会社員ではないし、自営業っていうほど稼げてないし、パートやアルバイトでもないし、主婦でもないし…)
考え込んでしまった。適当に流しておけばいいものを、真面目に考え込んでしまった。と次の瞬間、奥でそっぽを向いていたベテランの警察官が吐き捨てるように言った。
「カジテツって書いとけ!」
(カジテツ…?カジテツって家事手伝いってことか?なんか…腹立つ。なんか悔しい。肩書きなんて…。あんたから肩書き取ったら何が残るんだ!)
心の中で八つ当たり的な凄まじい悪態をついたけど、実際は溢れる涙をこらえるのに必死で何も言えず、交番を後にした。
芸術大学を卒業して就職はせず、学校に教授の助手として過ごしながら、ふつふつと芸術家になりたいと思っていた。30才目前にしてもなを、絵に描いたようなボンクラ娘まっしぐらだった。あの頃なら、「はい。その通り!夢見る少女、カジテツしてます。」と答えただろう。だが、その時は違っていた。父が倒れたある日の朝から一変した。数学嫌いの私がCADを覚えて図面を描き、男社会の建築業の中、お嬢ちゃん扱いされつつ仕事をし、それを病院の父に報告・相談…。それに加えて、自分で始めかけていた広告デザインの仕事もちょこちょここなし。週に何日かはCADを活かした仕事をし。そんな日々の真っ最中だった。いつしか芸術家になりたいなんていう夢すら封印して、むしろ、自分を無くして働いていた。家事手伝いではなかった。でも、項目として挙げられたどれにも当てはまらなかった。あのベテラン警察官に心の中で、(必死に生きてることに違いはない。肩書なんていらんやろ!)と腹を立てたけど、実は誰よりも自分が肩書を求めていたのかもしれない。何もかも突然で荷が重すぎて、自信など持てず。こんなに大変な日々を送っているのに、社会的に自分というものを表現することが出来なくて、傷ついた。
今は結婚したので「主婦」という項目にチェックする。でも、職業は?と聞かれると今なお困る…けどもう動じない。あれから会社は閉めることになったが、今度は介護の問題が本格化して…結局、定職に就けずに、自宅でできるデザインの仕事を細々続けている。ボンクラ娘の頃は、会社勤めに魅力を持てなかったけど、今はすっごく魅力的に映る。月曜から金曜まで愚痴を言いつつ働いて、そこそこの給料をもらい、年に何度かのボーナスも。何より、「会社員」とチェックできる。素直にいいな…と思う。
自分で選んだというよりは、運命の流れに沿ってきただけだけど、受け入れたのなら肝を据えるしかない。そう割り切ってしまえば心が軽くなる。もう人に何か言われて傷つくお年頃はとうに過ぎてしまった。肩書きはあれば便利だけど、人を理解するには小さすぎる項目…そう思うようにしている。