アンコール遺跡で「写真」に出会った
「おー!これは、シャッタースピードを説明する時のお手本のような写真だ!」
ロンドンの専門学校で写真コースに通っていたことがある私、課題を提出した時に褒められた。
学校で写真をやったなんていうとものすごく本格的に思われるかもしれないけれど、そこはどちらかというと、美大に入りたい学生がポートフォリオを作るために在籍し「未経験」から「中級者」になって巣立っていく…というレベルの学校だった。私もその後美大に行くかどうか少しだけ迷ったけれど、いろいろ考えて辞めた。
とはいえ、写真の超基礎を手取り足取り教えてもらえて、仲間と一緒にわいわいPBL(プロジェクト・ベースド・ラーニング=課題探究型学び)体験できたのはものすごく楽しくて味わい深い時間だった。
でもなんで、学校に通ってまで写真をやろうと思ったんだっけなぁ。
写真を始めたきっかけをちょっと思い出してみる。
たしか、2003年の夏。卒論のリサーチを兼ねて、カンボジアのスタディツアーに参加したことがあった。一応社会学科に在籍し、人類学の卒論を書くことになった私、当時バイトしていた国際支援NGOの皆さんに協力をお願いして、支援先のカンボジアを舞台に論文を書いたのだ。…といっても、私の大学四年間は、悪しき文系学生の象徴、みたいな過ごし方であっという間に過ぎましてですね…。バンドサークルの活動と飲み会と恋愛と友達とのダベリでその大半が過ぎていた。あとは、家のばあちゃんの世話と、週に2回まわってくる夕飯作りの当番、そしてバイト。もう忙しすぎて「勉強」「研究」「読書」の類に割く余力がまったく無かったなぁ…本末転倒!今振り返るとなんと勿体無いことをしたのかなと思う。けれども、あの頃の私にはそれが必要だったのよね…
と、話が横道にそれたけれど、そんな私でも卒業はしないと困るので卒論を書くためにいろいろと考え、リサーチの総仕上げ的な感じでカンボジア訪問が決まりました。
そのツアーで、初めてアンコール・ワット観光に行った時のこと。
寺院の最上階に腰掛け足をぶらぶらさせながらボーっとまわりを眺めて休憩していた時…青空と熱帯雨林がどこまでも広がる雄大さに胸をうたれて、写真を撮りました…「写ルンです」で。
「母に見せてあげたい…」とすごく思った。
当時50代半ばだった母。祖母(母の実母)が、心身ともに病気がちな上にお嬢様崩れのワガママキャラで、母はこの頃までにすでに正味40年近くの長きに渡り、その看病・介護をしていた。特に、精神的な痛みを抱えきれなくていろいろと認知がひしゃげていた祖母が母に下した行動的な制限が大きくて。祖母自身がハワイだグアムだと旅行に行っている間にも、母には一切の海外旅行を許さなかったんですよね。「別にいいじゃんそんなの無視すれば」と通常は思いますが、その家庭内の微妙で絶妙な秩序を保つために「その掟を破ることがどうしてもできない」という関係性が成り立ってしまうということって、あります。で、母は、元来旅行も好きだし異文化にも関心が強いタイプでありながら、祖母からの赦しが出ないというたった一つの理由により、海外経験がゼロだった。その分、私がカンボジアのスタディツアーに行きたいと言えば「行っておいで」と送り出してくれる。そういう母に「この景色を見せてあげたい…」とすごく思ったんですよ。
でも、いざ「写ルンです」を現像プリントして現れた映像は、ボケボケで色もとんじゃったような、出汁の効かない吸い物みたいな出来で…ガッカリ。本棚のナショナル・ジオグラフィックを見比べながら「どうしてプロの人たちはこんな写真が撮れるんだろう…」という疑問を生まれて初めて持った私。
「もしかして、良いカメラ使ってるんじゃね?」
気付くの遅いー!
でも、まぁ、正解、ではある!
今となっては、世界遺産保護のため、アンコール・ワット寺院の最上部は立ち入り禁止で入れないけれど、この頃はまだ登ることができたから見られた景色で、それがあったから、気づけたことだったかもしれない。
その時に、「写真をやってみたいかも」という発想のタネが生まれて、その後しばらくは、フォトジャーナリズムみたいなものに憧れていたんだけれど、結局ジャーナリズム向きではなく…。旅写真を楽しむだけになっているけれど、そもそもの始まりは
「世界の景色を、どこにも行けない人たち(その代表が当時の母)に見せてあげたい」
という願いだったんだなぁ。
そういう意味では、アンコール・ワットに初登頂した2003年の夏から2020年の今まで、私なりに一貫しているみたい。
(London, UK)