「乗り越えた物語」と「乗り越えられない物語」
いろんなことを「乗り越えた物語」と同じように「乗り越えられない物語」もあるのだ。2つは等価で対等でどちらも当たり前に存在する。
いろいろなハンディ、ハードル、苦労、苦難、困難を「乗り越えた物語」はもてはやされる。
では、それらを「乗り越えられない物語」はどうだろう。
中途障害を負って、「どうしてこんな目に…」と思いながら生きているひと、若い頃に無理をして心身を壊し、生活保護から抜けられずにいるひと、虐待した親を恨みながら生きているひと…
情けないと思うだろうか、甘えていると思うだろうか、思考が良くないと感じるだろうか、努力が足りないと思うだろうか、ネガティブすぎると思うだろうか。
いずれにせよ、「乗り越えられない物語」は歓迎されない。
歓迎されない物語は語られない。避けられ、目を逸らされ、なかったものにされる。
歓迎される物語は語られ、目立ち、それこそがあるべき姿だとされる。「乗り越えた物語」こそが目標だとうたわれる。「乗り越えられない物語」は目標に達することができなかった、劣ったものとされる。
そうだろうか。
ひとの人生に、優れた人生と劣った人生があるのだろうか。
そんなことはない。
「乗り越えた人生」と「乗り越えられない人生」に優劣はない。
「乗り越えた物語」には、努力もあるだろう、環境もあるだろう、運もタイミングもあるだろう。
「乗り越えられない物語」にだって、同じように努力も環境も運もタイミングもあるのだ。
何が2つを分つのか。
パズルのピースが合わないように、合わない時は合わない。複数のパズルがシャッフルされていることだって、人生にはある。むしろそっちの方が多い。人生は恐ろしく複雑だ。
膨大複雑な、複数シャッフルのパズルを前に、隣り合うピースを見つけることができなくたって、当たり前だ。意志を持って選んだピースに、続くピースを見つけることができなかったからと言って誰が責められる?
その時その瞬間、一緒にパズルを組んでくれるひとがいたり、いなかったりもするだろう。いてくれるのも長い人生にたまたま、いてくれないのもたまたま。誰かを責められるものではない。
「乗り越えられない物語」に責める理由も相手もいない。だから、自分のことも責める理由はない。全ての「できない」には理由があるのだから。
その時、具合が悪かったかもしれない。お腹が空いていたのかもしれない。障害を持っているのかもしれない。昨日、家族が亡くなったのかもしれない。フラッシュバックに苦しんでいるかもしれない。
「何か理由があるのだろう」と考える余白を、他人は大切にしたいし、「乗り越えられない」自分を認めて、それでもそんな自分と共に生きる意志を大切にしたい。
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