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保護猫と、母の思い出

切り替わりのタイミングを迎えているらしい。時代の流れもそうだし、私個人も古い観念の手放しが起きている。

過去の残骸が流れ去っていくのを清々しい思いで見送るのだが、まだ残っている過去の傷に出会ってはっとすることもある。

それはたまたま瀕死の子猫を蘇生させる動画を見たときだった。

男性の手のひらの上で息絶えて死後硬直が始まっているトラ猫の子猫に私の目は釘付けになった。

子猫は生後間もなくまだ目も開いていないときに草むらに捨てられたのだ。

男性は子猫を手のひらに乗せたまま心臓マッサージを試みる。どうか助かっておくれ。

目が離せなかった。母親との愛着の傷をもつ私は、捨てられた子猫の悲しい運命に自分を投影していた。

男性の懸命の救助のお陰で、子猫はやがて口を開き息を吹き返した。やった。

このあと子猫は動物病院で検査を受けたあと男性の家に引き取られ、ミルクと暖かいベッドと愛をもらい、すくすく育って幸せな家猫になるまでを動画は伝えていた。

ハッピーエンドで良かった。愛を受けたことのない子猫は優しい人に救われて愛を知る、なんて暖かいストーリーなんだ。私は胸が詰まりそうになった。

動画はつきつぎと保護猫の映像を送ってくる。猫たちは人を見ると駆け寄って保護を求めてくる者から、衰弱して動けなくなった猫までいる。しかし結末はみんなハッピーエンドだ。

なかでも印象的だったのは、全身皮膚病に罹患して泣いていた猫が、薬湯に入浴させ治療を継続しているうちに、皮膚の下からみごとな毛並みが現れ、精悍で美しい猫に変身したときだ。

このストーリーには感動し、大いに勇気づけられた。

猫もそうだが、人のポテンシャルも親の愛を受けることによって開花する。

生涯で一度も愛を受けたことの無い(と思い込んでいる)愛着障害の人は、傷だらけで、その傷の下にまだ見ぬ可能性を封印している。開花させないまま一生を終わっては、勿体ないことだ。

保護猫の動画を見ながら、そんなことを考えていた。

そして、傷が癒えていく猫たちを見ながら、私の傷も癒えていくのを感じていた。

保護猫の動画は再生回数が何十万回と多いが、視聴者たちもまた自分の傷を癒しているのだろうか。

保護猫の動画を見て、ふと母のことを思い出した。

母親から愛を受けられなくて寂しい子供だった私は、親戚の叔母さんの中に一人だけ甘えられる人がいて、その人に擦り寄ってハグを求めたり愛情表現していたら、母親にすこく怒られたことがあった。

三、四歳ぐらいの時だった。

いま思えば、母も愛されたことがなくて寂しかったんだと思う。

このノイローゼの母に絡まれて私は十八歳までの思春期を過ごしたのだが、母は見栄っ張りで認められたい人だった。

子供が母である自分を称賛しないのが悔しくてたまらないのだ。

親が子供に愛を求めるのは間違っているが、親自体が未成熟でこころは子供なのだった。

こんな母に育てられた私だが、いまは母と同じような傷を持っていることに気づいている。

私も見栄っ張りで認められたい人である。

私は自分を曝け出すことに恐れを感じる。こんなカッコ悪い自分は見せられないと。人生は人に見せるためのものではないが、人に認められたいと思っているうちは、私の傷はまだ癒えていないのだろう。

自分を愛していれば、人にどう思われていようが構わない。この私でしか生きられないとサレンダーしてしまえばいいのだ。

私はこれからも書くことによって、傷の在り処を確認して自らの手で自分を癒やす作業を続けていくだろう。

私は傷を負った保護猫であり、同時に保護猫を救助する優しい癒やし手でもあるのだから。


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