【回復】カラスと他人の思惑なんか分からない、認知の歪みはどこから来るの?(覚え書き)
カラスに襲われた話から書こうと思う。
皆さんはカラスに襲われたことはありますか?
私は石垣に来てから初めて子育て中のカラスは攻撃的になることを知ったが、それにしてもあの威嚇するときの迫力にはびびった。
カラスといえば、秋の夕日、稲刈りが済んだ田んぼ、お寺の鐘、小学唱歌の世界に住む牧歌的なイメージしかなかたったが、それは人間(私)側の都合のいい思惑であって、カラスにはカラスの生きる摂理があるのだろう。
で、カラスに襲われた話。
今年の夏、私は生まれて初めてカラスに襲われた。
家の近所の路上を歩いている時だ。
帽子にサングラスで日除けしながら歩いていると、民家の塀の上にカラスが飛んできて止まったのが見えた。
そのあとカラスは私の背後から襲いかかってきて、たぶんクチバシを使って私の後頭部に一撃を加えたのである。
そのときコツンという音がして、痛みが走った。
カラスの世界には縄張りがあって、縄張りに侵入してきた者を外敵とみなして攻撃するのかもしれない。
あるいは近くに巣があって子育て中だったのかも知れない。
カラスにはカラスの事情かあったのかも知れないが、しかしそれにしてもカラスの仕打ちを憎たらしく思い、怒りを禁じ得なかった。
終日ショックを隠せず、自分が惨めで情けなく「私はカラスにまでバカにされるほどのツマラナイ人間か?」
おいおい。
冷静に考えると、カラスに襲われたことと私の人間的価値はなんの関係もない、ということに気づいて笑いそうになった。
過度に悲観的に考えてしまうのは、認知の歪みがあるからだ。
認知の歪みは、多かれ少なかれ、ほとんどの人にある。
認知の歪みは、ロジャース派のカウンセリングでは「内的準拠枠」といって、先入観、思い込み、考え方のクセのことを指す。
たいていは親との関係の中でつくられ、「人間とは○○○」「男とは○○○」「女とは○○○」「私は○○○」など固定観念となって、その人の人生に制限をかける。
「私は嫌われる」「私は虐められる」という認知の歪みがあったから、カラスの意地悪を自分のせいにしていたのだ。
それが分ると私の自虐性に気づいてアホらしくなる。
前置きが長くなってしまったが、ここからがこの記事の本丸です。
過度に悲観的になったり、ものごとを拡大解釈してしまうのは、認知の歪みがあるからである。
認知の歪みはトラウマ体験から来ている。
トラウマがあると自分と周りの人を客観的に見ることが出来ない。
どうしてもネガティブに捉えてしまう。
しかし、回復とともに世界の捉え方が変わってくる。
心的外傷体験があると、その部分だけが強いスポットライトが当たったように強調されて記憶に残るが、回復してくるとしだいに他の日常のささやかな出来事も鮮やかに思い出されてくる。
そして、外傷体験の記憶と日常の記憶がしだいに並列に並んで、トラウマの戦場を生き抜いてきた日々に凪のような時が訪れる。
すると、「私は嫌われる」「私はバカにされる」という認知の歪みもゆるんで、そうじゃないかもしれない、という幅のある見方ができるようになる。
私はカラスにどう思われるか?他人にどう思われるか?、けっこう気に病む人だったのだ。
他人軸、っていうやつね。
最近は、カラスの思惑なんか分からないし、他人が私のことをどう思っているか分からないし、そんなことどうでもよく思えるようになった。
トラウマを解消すると、他人を恐れなくなりますよ!!